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伊藤詩乃ピアノリサイタル vol.5

来年(=2024年)はピアノリスニング力を鍛える年にしよう。

そう考えて昨年12月23日に清塚信也のリサイタルを聴きに行って以来、久しぶりのピアノリサイタルに行ってきた。定点観測している伊藤詩乃の「ピアノリサイタル vol.5」だ。

「もう、アイドル最後なんです……」

当時所属していたMalcolm Mask McLarenのファンクラブ限定配信で泣きながらラストライブ(2023年4月26日)への来場を呼びかけていた詩乃ちゃん。ピアノリスニング力を鍛えようと決意するきっかけは彼女がピアニストに転身したからだったが、そのわずか7ヶ月半後に彼女はアイドル引退をあっさりと撤回し、今も笑顔で転生先のアンスリュームでアイドル活動に勤んでいる。。。そのアンスでの活動の余波を受けて、今回は半年以上のスパンを開けてのリサイタル開催となった。

フライヤー(伊藤詩乃さんのXより転載)

5回目となる今回も、場所は手慣れた松濤サロンだ。アンスに加入してから初となるリサイタルのチケットは、発売翌日に完売するほどの盛況ぶり。実際に当日も大入り満員で、しかも過半数以上を新規の客が占めていた。女性客がほとんどいなかったことが気にはなったが、彼女のこの先のキャリアを考えると、客数を増やすという意味で、アンス加入が正しい選択であったことを図らずしも証明する結果となった。

会場となった松濤サロン

定刻になり、淡いピンクのドレスを身にまとった詩乃ちゃんが姿を現す。桜を連想させるドレスが少し絞ったと思しきビジュアルに素敵にフィットして綺麗だった。
着席し、集中力を高め、彼女は雅に押すように鍵盤を叩いた。1曲目はラヴェルの「水の戯れ」だった。「あれ?もしかしてこれは……」と思って聴いていたが、やはり「水の戯れ」だった。

度肝を抜かれた。

超が付くほどの難曲と言われるこの曲を1曲目に持ってきていたからだ。加えて、この日披露された全曲の中で抜群に完成度が高かった。序盤は鉛色で粘度のある水がたゆたうように流れるイメージが想起され、終盤の高音は刺すような冷水のイメージを得たのが面白かった。この日唯一、譜面を見ずに演奏していた曲でもあったが、これまでに聴いた彼女の演奏の中で最も演奏スピードのコントロールに優れてもいた。

「誰かに見てもらったの(=コーチについてこの曲を練習した)?」

終演後の特典会でそう尋ねたところ、彼女は「独りで練習した」と答えた。
ただ、かつて音大の課題で練習したことがあったそうだ。成績優秀者だけが出場できる卒業公演でも披露する予定だったようだが、当時のアイドル活動との兼ね合いで卒業公演に参加できず、日の目を見ることはなかったようだ。
同時に「緊張した」とも言っていた。あまりの緊張で最初のブロックのことは覚えていないようだった。「水の戯れを最初に持ってくるからでしょ?」と返すと、「コンサートは1曲目の印象が大事だから」とも言っていた。それはそう。。。

ファンからの献花とプログラムボード

この日、印象に残ったのは3曲だ。既に紹介した「水の戯れ」、所属するアンスリュームの楽曲で自らピアノアレンジを手がけた「恋せよ!ぱらぱら半チャーハン」、そして、アンコールで披露された「For Tomorrow」(清塚信也)だ。

元々この「恋せよ!ぱらぱら半チャーハン」のピアノアレンジはアンスに加入した際に公開されたティザー映像用に、彼女がわずか一日で練り上げた技巧を凝らしたもののようだ(正確にはその際に作ったアレンジのメモは散逸したらしい)。しかし、実際に採用されたのは撮影現場で即興で作ったおしとやかなアレンジの方で、努力は無駄になった、、、と。
そんな面白エピソードとともに披露されたこの曲は、普段のアイドルのライブで披露される歌と踊りのパフォーマンスに比べ全体的に上品であるものの、主旋律に絡むオカズの多彩さと多さが麗しく、かつ、ここでも抑揚を含めて完璧にスピードを管理していた。

今回の演奏会の特徴の一つは、「水の戯れ」と「恋せよ!ぱらぱら半チャーハン」という本編の最初と最後に力点を置き、スピードのコントロールに優れた演奏を見せたことにあると感じた。この2曲を軸としたことで、最初と最後に優れた演奏を聴いたという感覚を得て会場を去ることができた。一言で言うと、「ズルい(=クレバーな)」プログラムだ。

伊藤詩乃さん

シ:力(=腕力)、強くなった?
詩:ここ1週間くらい筋トレしてるから。
シ:そんなにすぐ効果は出ないからね。
詩:朝と夜に30分ずつ。
シ:何でそんなにやってるの?
詩:ボディー、メイク??

もう一つの特徴は、かつてないほどの強打。なぜ今回に限って多くの曲でそこまで強く打つのだろう?とずっと考えていたが、終演後にある仮説が思い浮かんだ。堂々と強めに叩くことで、少し誤魔化したな、、、と。
多忙ゆえに練習の時間が取れなかったのかもしれない。1曲目の「水の戯れ」は過去最高峰、まさにワールドクラスの凄まじい演奏であったものの、それは音大時代に築いた資産を活用したものだったという。
もちろん、「タイムパラドックス」の小気味良いスタッカートも「ウィーアー!」の女性離れした膂力も面白かったが、外れ値である「水の戯れ」を除くと、リサイタル全体での完成度はトークのネタも含めて過去4回の方が高かった。単純に準備に使える時間が減ったのだろう。

当日のプログラム

アンコールで披露されたのは、折に触れて彼女が弾いてきた「For Tomorrow」だ。この曲と言えば、約一年前にサンパール荒川で開催された「ピアノリサイタルコンサート」というイベントでの演奏が強く記憶に残っている。
彼女は愛犬を失くした直後だったようで、涙をこらえながらこの癒しの曲に正面から向き合っていた。とても申し訳ないとは思ったが、かつてないほどに情感あふれる素晴らしい音色で、良いものを観たと思った。
今回の「For Tomorrow」もこの日披露された曲の中では最も情緒的な沁みてくる高音が心地よかった。改めて、彼女の音色は胸を打つと思うと同時に、楽曲自体が強い力を宿していると感じた。

伊藤詩乃さんの略歴

伊藤詩乃として5回目のピアノリサイタルだった。アンスリューム加入後初となった今回は、新たな客層を開拓して完売。終演後の特典会も盛況で、個人活動時代の終盤に落としつつあった客足を一気に取り戻していた。

伊藤詩乃さん(全身)

次回もおそらく同じ会場だと思う。完売状況を維持しつつ、限られた練習時間でどうやって高品質のプログラムを提供するかが鍵となる。(あくまで過去4回の彼女の標準的なプログラムに比べてだが)奇策は2回連続では使えない。そして、高い品質の演奏を新たな客層に分かりやすく伝えることも重要となるだろう。伊藤詩乃名義の新曲が生まれる可能性もある。楽しみだ。

そう、音楽家・伊藤詩乃のキャリアはまだはじまったばかりだ。

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