ビーガンの本質は肉を食べないことではなく肉を手に取らないこと。

0 はじめに
 タイトルのままでは語弊が生じるので語の定義付けから行います。
 ビーガニズムは完全菜食主義と訳されますが,これは誤りです。ビーガニズムについては,英国のビーガン協会によると

Veganism is a philosophy and way of living which seeks to exclude—as far as is possible and practicable—all forms of exploitation of, and cruelty to, animals for food, clothing or any other purpose; and by extension, promotes the development and use of animal-free alternatives for the benefit of animals, humans and the environment. In dietary terms it denotes the practice of dispensing with all products derived wholly or partly from animals."

https://www.vegansociety.com/go-vegan/definition-veganism



 つまりビーガニズムは「実践できる範囲で動物搾取に与しない」ライフスタイルであり、ビーガンとはそれを実践する人間です。
この定義の上では,ビーガニズムを正しく訳すならば脱動物搾取主義となります。
また,本文中では,肉を動物の血肉と定義し,食肉のみならず,毛皮や脂,動物から抽出された成分を指しており,これらを以下肉とする場合があります。
"as far as is possible and practicable"が示す,実践できる範囲の境界線のついて,許容されるラインの議論は根拠となりうるさまざまな正当性やアプローチの仕方があり,現状統一解があるわけではありません。
ですが,許容されないラインは明確に示すことができます。

 実践できる範囲で忌避ができる,明確に許容されない動物利用として挙げられるのが食肉であり,動物倫理に馴染みがない人間からすれば,食肉以外に連想は難しいと思いますし,それ故にビーガンは肉を絶対に食べない人間,完全菜食主義者と誤訳されてしまうのではないでしょうか。
その上で,ビーガニズムが完全菜食主義ではなく脱動物搾取主義であるならば,ビーガニズムが何を問題としていて,何を明確に忌避しているのかが捉えやすくなるのではないでしょうか。

1:避けるべき動物搾取

1-1 動物搾取とは
 動物搾取とは,読んで字の如く動物から利益を搾取することです。
仔牛のための乳をヒトが横取りすることが例に挙げられますが,本質的には畜産というシステムそのものが搾取に当たります。
なぜなら,ヒトを含む動物にとって平穏な生活,生命維持が脅かされること自体利益の侵害であるからです。
ヒトが動物の権利を侵害し(*1)利益を享受できるメソッドをシステム化し,高度に運用していることは,搾取構造そのものです。

(*1):ここでは動物に内在的価値のある権利享有主体(であるべき存在)とみなし,動物にも権利があるとしています。内在的価値とアニマルライツについては後述します。

 また,畜産による食肉はもとより,服飾,ペット産業,娯楽目的の動物の利用は明確に実践できる範囲で忌避すべき動物搾取と扱えます。

1-2 食肉について
 多くのヒトは栄養学的に見れば肉を食べなくても生きていけます。
多くの人間にとって動物性タンパク質が必要なケースは少なく,ビタミン類も肉を避けていたとしても健康を損なわないよう生存することは可能です。

1-3 ファッション(衣料品・靴類・装身具等)について
 レザーやファーは贅沢品です。
レザー製品を身につけなければならない場面は現代において稀有な事例でしょうし,ファーも同様です。
所属するコミュニティによってはそれなりに見える革靴,ポリエステル感のないスーツの着用が望まれており,圧力になっているケースは多いように思えます。
しかし,それは社会に内在する問題であり,サラリーマンは本革の靴を履き、ベルトを締め、ウールのスーツを着なければならないという規範に価値や益を見出すことはできても,動物の苦痛と比較してその益のために動物に苦痛が発生している事実,すなわち搾取に加担しているということは,非ビーガンにとってもコンセンサスが取りやすいでしょう。

1-4 ペットについて
 ペット産業についても,人為的に動物を生み出し,それを産業利用している構造は,いくら善良なブリーダーが多く,取引された動物が幸福に暮らしていようと(*2),動物搾取という点に変わりはありません。

(*2):これは過程の話で,ペット市場に利用されている動物がおかれている環境は劣悪ですし,ビーガニズムという前提を差し置いても,社会からペット産業が批判されている現状を見るに,これは問題意識を共有しやすい事柄だと思います。

1-5 その他さまざまな形の搾取とその正当性
 上記の動物利用は,ヒトが行う動物利用の一部です。
 その他にも,動物実験や,生物由来の医薬品の製造,研究施設としての動物園,動物性愛,など,ヒトは様々な形で動物を搾取しています。
 そして,動物実験や医薬品の開発製造のように,ヒトの命を救う問題と衝突した時に議論は複雑化します。
 厳密に言えば,食肉やリアルレザーの利用も,そうせざるを得ない環境におかれたヒトの行動の正当性評価は,自明に悪とは断じられないですし,ビーガニズムにおいても意見が分かれるでしょう。
 これはおいおい,また記事にして整理していきたいと思っています。
 しかし,グレーゾーンの議論は難しいものですが,シンプルに黒はなぜ黒か。悪いものはなぜ悪いのか。という論証はどの思想においても,倫理ベース・直感ベース共に,論理展開をしてもコンセンサスは取りやすいのではないでしょうか。
 その前段階として,まずは何が搾取にあたるかという前提の共有にお付き合いください。

 この記事では,なぜ動物搾取は悪であるか。この根拠について。そして,なぜヒトが避けるべきは食肉ではなく動物利用であるかを解説していきたいと思います。

2:動物搾取を悪とする根拠

2-1 功利主義と義務論
 なぜ搾取はいけないのでしょうか。
現代の動物倫理学では大別して3パターンの論理展開があります。
今回は,というより私が無学で知識がないだけなのですが,功利主義義務論をベースとした展開をしていきます。

2-2 功利主義
 現代の動物倫理を語る上で,もっともポピュラーなのは功利主義(utilitarianism)です。
 功利主義とは,価値判断の基準に功利性を重視する思想であり,功利(utility)は言い換えるならば,有益,実利的である,役に立つこと,とすることができます。

2-2-1 ベンサムの功利主義

 功利主義の父であるジェレミー・ベンサムは次のように説明しました。

自然は人類を苦痛と快楽というふたつの主権者の支配のもとにおいた。われわれがなにをしなければならないかを支持し,われわれがなにをくるであろうかを決定するのは,苦痛と快楽だけである。
(中略)
功利主義の原理とは,その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか,それとも減少させるように見えるかの傾向によって,換言すれば,その幸福を促進するようには見えるか,幸福に対立するように見えるかによってすべての行為を是認し,また否認する原理を意味する。
中央公論社『世界の名著 ベンサム・ミル』81-82頁

 ここで語られるベンサムの理論は,あらゆる種類の快楽や幸福であることを平等に扱い,幸福であること自体を最大化する最大幸福原理(the greatest happiness principle)を唱え,個人にとっての功利性,すなわち幸福の総和は,個人の総和である社会の価値として扱う総和主義を導きました。

2-2-2 ミルの功利主義

 対してベンサムの後継者であるジョン=スチュアート・ミルもベンサムと同様に,快楽が多く苦痛が少ないことを幸福としました。

功利あるいは最大幸福原理を道徳の基礎としてうけいれる信条に従えば,行為は幸福の促進に役立つのに比例して正しく,幸福に反することを生み出すのに比例して悪であると主張される。幸福とは,快楽と,苦痛の欠如とを意味し,不幸とは,苦痛と,快楽の喪失を意味する。
中央公論社『世界の名著 ベンサム・ミル』467頁

 ミルは「満足した豚よりも不満足なソクラテスであれ。」という標語が示す通り,快楽の質を重視しました。
しかし,快楽ばかり追い求めている生活は果たして正しく善い状態であり,これが幸福なのかという直観的に受け付けられない疑問が生じます。

2-2-3 選好功利主義

 確かに快楽ばかり追い求めている生活が無条件に良いものとは言えません。
功利主義の批判者であるロバート・ノージックはこの論点を整理し,次のような思考実験をしました。

どんな経験でも得られる経験機械なるものがあると仮定する。あなたはその中に入り,ありとあらゆる経験ができる。餌を頬張り満足した豚の気持ちも,熱熱心に知を探究するソクラテスの経験もだ。実際にあなたは経験機械という機械の中で呆けているだけで,実際には何も行われていないが,果たしてそれは幸福なのか。

という論点です。

 あなたがこれを幸福と感じようとも,直観的に多くの人が抱く幸福観に背いているため,この論点を克服するために選好充足(preference satisfaction)(*3)という概念により,より幸福を追求しやすくなるという選好功利主義という考え方が主流となってきました。
 選好すると言っても,あなたにとって大事なこと,これだけは譲れないこと,比較的マシな選択肢を選ぶこと,どうだっていいこと,様々な選択があると思います。
例えば,今からあなたは私に身体的な危害を加えられるか,私から金銭をもらうか,という選択肢ならば,後者を選好すると思います。なぜなら後者にメリットがあることも一因ですが,誰だって言われのない暴力は振るわれたくはないはずです。そのような大事なことであったり,譲れないことについての選好は強く,どうでもいい選択肢からの選好は弱いと考えることができます。ならば,より強い選好が充足される方がそれだけ幸福の量も多いことになります。

(*3):選好とはえり好むことだと捉えてもらえば良いです。プランA,プランB,プランCという選択肢の中で,「Aを選好する」という表現は「Aを他の選択肢よりも望む」という意味になります。

 確かに,多くの人は不本意に,また理不尽に他者から傷つけられることがない状態を好ましく捉えるであろうし,幸福な社会ということができるでしょう。
では,人を動物にまで拡大してみるとどうでしょうか。
ある1匹の豚にとって,相手がヒトであれ,オオカミであれ,危害を加えてくる存在がなんであれ,傷つけられる状態を好ましいとしないでしょう。

 以上のことから,功利主義を用いれば,動物に苦痛という不幸を与える動物利用を避けるべきだ,といことができます。
ただし,功利主義の中にも動物を利用することで幸福の最大化を試みる者は存在するので,ここではあくまでも功利主義という理論体系を用いればそのようなことを言うことができる,というまでにとどめておきます。(それでも,功利主義者の間では,現代の功利主義者シンガーの「功利主義者ならばベジタリアンになるべきだ。 」という主張は一定の正当性を有していますが。)

2-3-1 義務論

 功利主義が幸福を重視したのに対し,義務論の祖,イマニュエル・カントは善い意志を重視しました。
すなわち,善い意志に基づいて行われる行為を義務であるとして,その義務は「〜すべし」「〜するべからず」という命令形で与えられ,その行為によって得られる結果が幸福だから,あるいは苦痛を回避できるから,ではなく,義務であるから果たされる行為のみが道徳的に善い行為だという立場を取りました。

2-3-2 カント義務論

カントは,人が負う義務に対して,次のように述べています。

「君は,君が行為に際して従うべき君の格律が普遍的法則となることと,当の格律によってその格律と同時に欲し得るような格率に従ってのみ行為せよ。」
岩波文庫『道徳形而上学原論』85頁

 馴染みのない言葉が多く出てきたので,噛み砕いて説明します。

まず,格律とは内面化した自分の中のルールやポリシーのようなものです。

・人とすれ違ったら挨拶をする。
・女性や子供に対しては優しく接する。
・街が汚れるのでポイ捨てをしない

これらはすべて格率です。
また,

・嫌いな人とは関わらないようにする。
・精神衛生が悪化するので無理はしない。
・謝礼が欲しいので財布を拾ったら交番に届ける

これらも格律と呼ぶことができます。
自分の行動原理に則り,「こういう時にはこうするであろう」というものが格率です。

次に,普遍的法則とは,原則誰にでも当てはまり,その行動原理が普遍的なものであると認めることができるものを指します。

例えば,あなたは「人のものを盗まない」というポリシーを持っていたとします。

あなたは現在,友達と遊んでおり,その友達はたった今,あなたの目の前に手荷物を置き,お手洗いのために席を外しました。
あなたの友達の手荷物の中には,あなたが欲しいと思っているものがあるとします。

ここで,あなたは「人のものを盗まない」というポリシーと「友達の持ち物を盗み自分のものにしたい」という欲求,言い換えるなら,「人のものを盗んでも構わない」というポリシーを比較することになります。

あなたの「人の持ち物を盗まない」というポリシーが万人が持つべきポリシーだとすると,この場で盗みは発生しません。
しかし,「人のものを盗んでも構わない」というポリシーを万人が持つべきポリシーだとすると,至る所で窃盗が発生し,所有権という概念が崩壊します。

ゆえに,あなたの「人のものを盗まない」というポリシーは普遍的なルールとして扱うことができ,「人のものを盗んでも構わない」というポリシーは,普遍化できないルールであり,多くの人が持つべきポリシーでないと言えます。

 更にわかりやすく口語に訳すと,
 「あなたがポリシーに従って行う行動が,そのまま他のあらゆる人のポリシーとなっても構わないのかどうかを考えなさい。そのポリシーによって多くの人(*4)が行動することに正当性がなく,それらの行動があなたにとって嫌だと思うのであれば行うべきでないし,多くの人があなたのポリシーに従うべきだと言える正当な根拠があるのだと思うのならば行うべきです。」
と簡潔に言い表せます。

(*4)多くの人が,とありますが,これは多数決的な意思決定を意味しません。多くの人が納得する正当性,という意味ではなく,限定的な理論や損得勘定にコミットするのでもなく,単純に広く賛同を得やすいであろう正当性,という意味になります。

 先の例なら,なぜ「人のものを盗まない」という格律が義務になるのでしょうか。
・盗みを働いたら報復されるから。
・友達のことが好きだから。
様々な理由が考えられますが,カントはこのような理由での格律を道徳的に善いとは言わず,「人のものを盗まないのは義務だから」という理由だけが善い道徳であるとしました。

 これは定言命法と言い,条件に「~せよ。」と命じる絶対的な命令です。
先の功利主義の原則では「~ならば,~せよ。」という条件付きで提示される命令でした。
例えば,「嫌われたくないのであれば,友達の持ち物を盗まないようにせよ。」という,嫌われる=苦痛であり,苦痛が回避されること=幸福(この等式はかなり雑です。)というものです。
定言命法はこの仮定を無視した,「〜ならば」という条件が存在しない無条件の行為を要求しています。

2-3-3 直接的義務と間接的義務

 また,カントは人格というものを尊重していました。ここでいう人格とはパーソナリティ(Personality),人柄,人となりという意味合いではなく,人間性(Menschheit)と言い換えられ,理性(普遍的な義務を思考し実践する能力)を備える存在に尊厳(dignity)があるといいました。
 この尊厳を有している存在には絶対的な価値=内在的価値または道徳的価値があり,それを侵してはいけない,それこそが我々義務であると解説しています。

君自身の人格ならびにほかのすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を,いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない。
岩波文庫『道徳形而上学原論』103頁

「人格を目的自体として扱い,決して単なる(*5)手段としてのみ用いてはならない。」という規範はカント主義を端的に表す言葉としてよく利用されています。
また非常にとっつきにくい表現が用いられましたが,言い換えるならば「人格を尊重し,自身を含める人間を「もの」として扱わず,ないがしろに扱ってはいけない。」ということになります。
さて,人間をものとして扱う=普段として使用するとはどのような状態を指しているのでしょうか。
例えば,盗む,騙す,殺すという行為は相手が許さないであろう行為を,自分の利益のために相手に行っているのであって,相手の尊厳をないがしろにし,単なる手段として自分の目的のために使用しているといえます。
また,全体の利益のために個人に危害を加えることも,他社の幸福の実現のため,その個人を手段として扱っていることになるため,それをしない義務を負っているといえます。

(*5)単なるという形容詞が重要で,目的を共有した相手を利用することは単なる手段として扱っているわけではなく,相手を目的としています。
例えば,ある企業の社長は労働者を手段として使い,なにかを作ったり,それを売ったりしたいと考え,労働者は手段として自身の労働力を提供し,労働力の対価としての報酬を得たいと考えています。その構図では社長は労働力の対価として報酬を支払う道具かのように扱われますが,この雇用関係に問題があるかと言われるとそういうわけではなく,お互いが「労働力を得たい」また「報酬を得たい」という目的を承知しており,これが「同時に目的として使用する」状態であり,「単なる手段」には当たらないことになります。

 これらは尊厳の主体たる人間が,人間に対して負っている義務です。これを直接的義務とされます。
我々人間には人間性があり,人間同士の尊厳を尊重しあわなければならない義務を負っていることが分かりました。しかし,動物に対してはどうでしょうか。
 カントは,動物には自分自身を意識していないので,すべての動物は「単に手段として」だけ存在しているので,目的のために存在しているのではないので,手段のみの価値である,これをヒトが有する内在的価値に対し,動物には道具的価値があるとしました。
 では道具である動物に対して,人は何をしてもいいのか,非道な仕打ちや残酷な行いなどが許されるかという問題に対し,カントは人間が人間に対して負っている直接的義務ではなく,人間が自分や他人の有する人間性に対して義務を負っているとし,動物に対する義務ではなく,動物に関しての義務を負っている,間接的義務であると説明しています。
 なぜ動物に非道な仕打ちをしないことで,人間性を尊重することができる(しなければならない)のでしょうか。

例えば,ある猟師が猟犬としてシェパード犬を飼っていたとします。猟犬は非常に猟師に懐いており,信頼しており,狩猟のパートナーとして忠実に支えていました。
いずれその犬が老いて,狩猟に全く役に立たない,猟犬として価値を失った場合に,飼うに値しないからと言って捨てたり,殺したりすることは,確かに犬は理性を有していないので格律と普遍的法則に基づく判断ができないのだから,猟師はその猟犬に対する義務に反していません。
しかし,動物に対して非道な仕打ちをしている人は,いずれ人間に対しても非道な仕打ちをするようになる。
猟師は猟師の人間性の義務に関して,人間性を毀損するようになる。
逆に,動物に情け深さを実現していけば,自分や,自分以外の人間性に対しての情け深さを育むことになる。

よって,動物に対しては理由があれば利用しても良いが,''人間のために''動物に非道な仕打ちをしてはいけない,とあくまで人間のために,動物に関する間接的義務を説きました。

2-3-3-1補足
この間接義務的観点からの動物保護については私自身同意していませんし,そもそも動物に内在的価値を見出さないことが前提の議論に否定的な立場を取ります。スタンダードなビーガンは到底この議論を受け付けないと思いますが,あくまでもタイトルである「ビーガンの本質は肉を食べないことではなく肉を買わないこと。」を説明する過程として,前提知識の共有に必要であったまでであることを理解していただければ幸いです。

ちなみに,動物に内在的価値を見出すことは理論的に可能で,幸福を望ましいものと扱う功利主義下では当然に内在的価値を持つし,カント自身のロジックを使ってもそれを正当化することができます。ビーガニズム批判者の中には植物にまで内在的価値を認めようと理論を組み立てる人間がいるのですから,実際に動物には立場によって差はありますが,多少ないしそのものとしての内在的価値があるものとして扱うのがスタンダードなように思えます。

最後にカントの擁護をしておくと,カントの時代には動物の苦痛を認知する能力については,今以上に解像度の低いものでした。思考し自律することを尊重に値する人間性としていたカントにとっては,動物にカントにとっての理性があるなどということを全く発想できず,ある種仕方ない部分が大きいのではないか,という気がしています。
我々はカントが論じた具体的な事例よりも,カントが確立した理論形態そのものの様式に学んでいく必要があります。それこそが修正主義なカント主義2.0ではないでしょうか。

2-3-4 ロスの義務論

カントは,ある義務が妥当たる理由を,人間の尊厳を分析し,より普遍的なルール化を試みていました。
しかし,実際に人間を尊重するための義務を遂行する場合,Aという義務を果たすにはBという義務に反してしまい,Bという義務を果たそうとするとAという義務もしくはCという義務,あるいはDという義務,またはAとCという複数の義務に反してしまう。といった具合に,二つ以上の義務が対立が往々にして発生してしまいます。これを道徳的ジレンマと呼びます。
より具体的な例として有名なのはハインツのジレンマです。

ハインツの奥さんは病気にかかってしまい,幸いにもその病気の特効薬をハインツが住む町の薬屋が開発していました。しかし,薬屋は法外な値段でその薬を販売しており,ハインツはその薬を買うことができませんでした。
ハインツは薬屋の設定している薬の額には満たないまでも,なんとかしてお金をかき集め,「このままでは妻が死んでしまう」と薬屋に直談判を試みましたが,薬屋は「その金額では売ることができない」と薬を売ってくれませんでした。
ハインツはやけを起こし,深夜に薬屋に忍び込み薬を盗みました。

これは,許されることでしょうか。

ハインツのジレンマでは,他人のものを盗んではならないという義務と,自分の妻の命を助けなければならないという義務が対立し,葛藤することになります。
カントはこの場合,「盗みは悪なので薬を盗むべきではない。」とした上で,薬屋の道徳心を批判し,「ハインツの集めてきた金を対価に薬を売るべきである」とするように思えます。(*6)

(*6)に関してはカントは不道徳な人に対しての義務(ハインツが盗みを働いてはいけない説明)や,生命に対する義務(薬屋がハインツの奥さんを救うべき説明)をしているので,それらからの帰結になります。カント義務論の立場でも違う立場を取る人がいるかもしれませんし,カント自体この事例に明確な答えを出しているかもしれませんが,私の知りうる限りではそのようなものが見つからなかったので,文中ではカント主義的帰結としてある種の結論を書いています。

カントが人格の尊重を絶対的な,基本的ルールとして扱うのに対し,ロスという義務論者は,一見自明の義務(prima facie duties)という理論を提唱しました。
一見自明というのは「見ただけで明らか」という意味ではなく,「一見しただけでは明らかだが,実際には違うかもしれない(違うかもしれない,というだけで,そうかもしれない)。」というニュアンスに近く,ハインツのジレンマを例にとれば「盗み」という行為のみに注目したら,盗んではいけないという義務は一見したところ明らかな義務である。しかし,ハインツには事情があったし,自分の妻の命を助けなければならない明らかな義務を守るために,盗みを働かなければならないこともあるかもしれない。
こうした,義務だというのは一応の判断であり,最終的な判断ではない,という暫定的な考え方をするのが一見自明の義務と呼ばれるものです。

ロスは,ハインツのジレンマの事例のように,二つ以上の義務が対立することがあれば,そこでは義務の調停が必要となり,措置的に一方の義務が一旦停止され,停止されなかった方の義務を,一見自明の義務に対して,よくよく考えてみてやはり妥当だと判断される行為を実際の義務としました。

2-3-5 レーガンの義務論

ロスの一見自明の義務の中には,危害を及ぼさない義務というものが当然含まれています。
これは実際の義務かもしれませんし,で,あるならば実際の義務だとする前に一見自明の義務であるという判断ができるはずです。これはJ.Sミルの危害原則という考え方で,「他者の自由への介入が認められるのは,他者からの危害に対しての抵抗のみである」という考え方で,故に他者に危害を加えることを制限するようないわば道徳上のルールです。
この危害原則に照らし合わせるならば,我々は他者を傷つけない義務を負っていますし,当然加害を避けなければなりません。
レーガンはこの危害原則の範囲をヒトのみならず動物にまで拡大して義務論を展開しました。
カントが配慮しなければならない対象は人間性で,人間性を有しているのは人間のみなので,人間に対しては直接的義務があり,人間性を持たないものに対しては間接的義務があるとしていましたが,レーガンは内在的価値を持つのは目的を持ちうる人格ではなく,生の主体にこそ内在的価値があるのだと主張しました。
生の主体の基準ですが,レーガンは信念という言葉を用いて説明しています。
ここでの信念とは日常的な用法とは異なり,欲求や感情を持つこと,知覚や記憶能力があること,未来の感覚があること,自己同一性が保たれていること,などを内包した概念です。
この信念こそがカントの目的自体に代わる概念であり,少なくともヒト同士が知覚しあえるような目的がなくとも内在的価値が認められるので,動物に対してもカント流にいうのなら直接的義務を負っている,としています。

レーガンはカント義務論の流れを汲み,カントの議論を修正した立場をとっており,動物利用(畜産や動物実験など)の即刻一律廃止を訴え,動物倫理に取り組む学者の中でもより一層ラディカルな主張をしています。

2-4 義務論を取り入れた功利主義

先に触れたハインツのジレンマの例でいえば,義務論にとってどちらがより強い義務か,どちらが実際の義務かによって実践すべき行動が確定していくことは示されるが,義務と義務とを比較する時,どちらの方が強いという立場で対立することが起こるのは仕方ない面があります。
 功利主義を用いるのであればより幸福が大きい方を選択すること,を軸にするなら,義務と義務同士の葛藤を克服することができます。(その結論を導くことが,義務論や功利主義といった倫理学上の諸派に対してのメタ的にどちらが優れるというわけではなく,あくまで一応の答えが出せるというだけのことです。)
しかし,実生活においては選好(*3参照)の連続です。実生活には馴染みのない倫理的な判断を求められる場合においてもそのような状況は発生します。そこで,まずはルールを定めておいて,それに従えばおおむね幸福が実現するであろうという立場を規則功利主義と呼びます。規則功利主義の立場なら,例えば何があっても人を殺すことはいけないことだとという規範にとりあえず従っておけば幸福を最大化するであろうので,裁判官が死刑を判断し死刑にした方がよいのではないかという判断をする必要がなくなります。
規則功利主義の利点はもう一つ,フリーライドを強く否定できるという長所があります。
規則功利主義と対立する,一回一回の行為で功利計算を行い検証していく行為功利主義という立場があります。行為功利主義に比べ,規則功利主義は個別に功利計算をし直すことを認めないので,フリーライドの対策としては強い議論を提供することができています。

例えば,10人で共同作業をする際に,1人ぐらいならサボっても差し支えないだろうと考える人が居るとします。事実,残り9人が作業に当たっているので,あまり作業効率は変わらないかもしれません。
ここで,行為功利主義的な立場を取るのなら,サボろうとする1人の視点に立つと,当然サボった方が楽なので,個別的な功利計算の下ではサボることを選択した方が良いかもしれません。
ただ,規則功利主義に則るのなら,1人がサボるといずれそのような人が増え,社会が立ち行かなくなるかもしれない,そのような問題を防ぐために,皆が同じように働くべきなのだ。という規則を設置することができるので,フリーライドの対策として優れるわけです。

ただし,規則功利主義も良い点だけではありません。
先に述べた死刑の例でも,「ある規定に反した行いをした人間を殺した方が,生かしておいた時に社会全体の損失を防げる,もしくは何かしらの利益があるので,殺した方が良い。」とするのなら規則功利主義的にも死刑を肯定できるようになります。

功利主義下で動物の生命を守るような,例えば「動物を殺してはならない」という規則を設定したとしても,結局動物という全体の利益を見た時に,ある一種族の利益の総数がその種族以外の損失を上回った時,「動物を殺してはいけない」という規則を変革させてしまうことも一応は起こりうる可能性はあるという点で,規則功利主義はそのような結論を生むこともあるかもしれません。

3 倫理の実践としてのビーガンという行動

具体的な実践としてのビーガニズム

2の各項目で触れたものが,ビーガニズム(というよりも動物倫理)を倫理的に肯定する論拠になっています。
では倫理的に正しいものをどのように実践していけば良いのでしょうか。
それについては0と1の項目で述べている,「可能な限り動物搾取を避ける」ということです。
その上で,タイトルにもなっている「ビーガンの本質は肉を食べないことではなく肉を手に取らないこと。」なのかを説明していきます。

結果のみで言うと,ビーガンは自身に提供された肉料理を拒もうと食べようと結局は死んだ動物は元に戻りませんし,どう処分しても良い状態になっています。
もちろん,自ら飲食店に赴き明らかに肉を使っているであろう商品を購入しているのは肉を食べる明確な意志の下での行為ですから,ビーガニズムに反しています。しかし,周囲に自らがビーガンであることを告げ,動物由来の製品を避けていたのにも関わらず,それでも提供された場合はどうするべきでしょうか。
例えば,肉は食べられないが卵や牛乳は食べられると思っていた知人に,卵や牛乳を含む料理を振る舞われた際はどうでしょうか。この問題に直面したビーガンは多いかと思います。
功利主義者かつ動物解放論者のピーターシンガーは肉類を提供されたなら社交上の振る舞いとして少しは口にしている(2021年時点でどうであるかはわからないですが)らしいですが,これはビーガニズムに反しているのでしょうか。ビーガニズム的に許容されるものでしょうか。
実際に,食べることに関しては構わないと思われます。なぜなら,前述の通り結果は変わらないからです。
でも,明確に避けるビーガンが多いのはなぜか。それは,一貫性にコミットメントしようと言う意識的な振る舞いです。規則功利主義と行為功利主義の議論でも触れたように,フリーライドという行為は人の直観にかなりマイナスに働きかけ,倫理学でもいかにしてフリーライドを発生させないようにするか,もしくはフリーライドを否定する論拠を作るか,に大変熱心にリソースを注いできました。
もし,ビーガンが目の前の肉を食べても構わないだろう,という事実のみで肉を食べているところを目撃された場合,事情を知らない他者からは「ビーガンなのに肉を食べている」と非難されることになりますし,一貫性が損なわれているかのように見えます。そのような事態を防ぐためにも,やはりビーガンは肉を食べないべきでしょう。
ロードキルされた野生動物の肉や,老衰死した動物の肉を食べることは生命を脅かしてはならないという倫理的な規範をクリアしていますし,ここでは死体の処遇に関する倫理はあえて触れませんが,そのような例外的なケースと,一般に行われている消費との差は何があるでしょうか。

実際に,スーパーマーケットに売られた肉を購入し,それを食べることと,肉を買わず,別の植物由来の食品を購入することの差は,マクロ的に見れば動物の犠牲は無視できる程度かもしれませんし,ビーガン1人の行動で影響はほぼ皆無かもしれません。
しかし,現在の構造の消費には,必ず消費したという事実が記録されます。需要が販売側に認識されるという方が正確かもしれません。
需要があるのなら,それを可視化する数値があるのなら,それを元に動物製品が仕入れられ,また製品を製造するために,動物が利用されてしまいます。これを避けるためにも,ビーガンは動物製品を手に取らずに,消費に加担しないこと,を目指すべきだと考えています。

まとめと参考文献

以上がタイトルが言わんとする「ビーガンの本質は肉を食べないことではなく肉を手に取らないこと。」の真意です。肉を食べてもいいとは言いませんが,問題そこではなく,ビーガンがなにを意識的に問題視するべき点を整理したかったのが記事を書いた目的でした。
質問があればコメントなりTwitterなりでお答えさせていただきます。

参考文献ですが,
伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』
ピーターシンガー『動物の解放』
田上孝一『はじめての動物倫理学』
を基本に展開しています。
その他義務論や功利主義の解説は
加藤尚武『現代倫理学入門』
ラデク,シンガーら『功利主義とは何か』
カント『道徳形而上学原論』『実践理性批判』
岩波書店『カント全集20 講義録Ⅱ』
を参考にしています。
伊勢田先生の本はどれもわかりやすいので,動物倫理に限らず倫理学の入門書としては良質だと思われますので,ぜひ手に取ってみてください。

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