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ゲームはみんな大好きで、スポーツは人によってまちまち

※注意:
スポーツにわかとゲームにわかが、それらしい語り口で語っている記事です。話半分でぜひ聞いていってくださいな。
では始めます。




人には多種多様な趣味がある。
人によって、好きなことは結構違うものである。
その趣味が好きになる理由は、その人の育った環境や経済状況、地域の文化、先天的な特性など、まあ色々あるだろう。

しかしながら、多くの人がほぼ普遍的に好むものがある。
それはゲームだ。
私は「ゲームをプレイしている間が苦痛でしかない。全く面白くない」と言っている人を見たことがない。ゲームセンスが皆無で、アクションゲームは嫌いという人はいるが、そういった人はパズルゲームや桃鉄のようなボードゲームであれば、普通に楽しんでプレイする。

ここで、スポーツと比較してみよう。スポーツも多くの人が楽しむものだ。
サッカーが好きな人はとことん技術を磨いて、試合をして、楽しむだろう。一方で、人によってはドリブルすらままならず、「何が面白いんだこれ」と匙を投げる、いやボールを投げ捨てる人もいるだろう。

そのような、サッカーの楽しさが一ミリもわからない運動音痴の人は、他の競技を試してみても、まあ、あまり楽しめるものではないだろう。

他の例え話を出してみよう。
ある中学校の1年1組において、
数学の授業は好きだが、体育の授業はテンションが低いという人もいれば、
数学の授業中はずっと寝ているが、体育の時間になると水を得た魚のように元気になる人もいるだろう。
しかしながら、そのクラス生徒全員にNintendoSwitchを与えてゲームを1時間させたときに、「先生この時間苦痛です。」と言う人はまずいないだろう。

このように、
あんなに世界的にもシェア率の高いスポーツでも、嫌いな人は本当に嫌いで、好きになる余地がないことがあるのに、
ゲームは、ほぼすべての人が嫌な感情を抱かずに楽しむことができる。

なぜゲームにはこのような、
ほぼ全ての人が楽しめる普遍の娯楽性があるのだろうか。



一通り考えてみて、私は

誰でも挑戦できるハードルの低さと
何かしらの自分の能力を活かせる多様性があるから。

と結論づけた。では順を追って説明していく。


①ハードルの低さ

ゲームの性質を相対的に考えるために、ここでは好き嫌いが多少生じているスポーツと比較して見ていこう。

スポーツは、種目によって程度は異なるが、肉体的な得意不得意が生じる。
例えば、身長が150cmしかない人はバスケをしても、ダンクシュートを決めることは物理的に不可能だろう。
もちろん、機敏性を伸ばしてダンク無しで点を稼ぐことも可能であろう。
しかし、生まれついた時点で、そんな縛りプレイのようなことを強制されて、猛練習することが確定している状態で、「バスケ頑張るぞ!!」となれる人はそう多くはないだろう。(ジャンプの主人公ならいける…?)

このように、スポーツは先天的・肉体的・物理的に不得意になってしまうことがある。どうしても。
だからこそ、ある程度楽しめるレベルになるためには、かなりの練習を要するわけで、これはハードルの高い娯楽なのである。

一方で、ゲームを見てみよう。
ゲームは(ジャンルにもよるが)、脳みそと指先を少し使うだけでプレイできる。つまり、ほぼ全ての人がゲームを楽しめる状態にあるわけだ。
これならば、何時間も汗水垂らして努力しなくても、最初から周りの人間と楽しめるステージに居ることができる。
だからこそ、ゲームはプレイするハードルが非常に低い娯楽なのである。

さてこのように、ゲームには、
①誰でも挑戦できるハードルの低さ があることは理解できただろう。

しかしながら、これだけでは「ゲームがほぼ全員プレイできる」というだけで、「ほぼ全員が”楽しめる≒嫌いにならない”」という意味にはならないだろう。そこで、2つ目の性質を見ていく。

②何かしらの自分の能力を活かせる多様性

先述の通り、スポーツの種目によっては、得意な体型というものがある。
バスケやバレーボールで言えば、身長がある程度高くないと、まともにプレイするのは難しい。
現に、NBA(プロバスケ)の選手の平均身長は2m弱であり、実際に試合を見ると、超絶デカい男たちがダンクを入れまくる姿を見ることができる。

このようにスポーツには種目それぞれに画一性が存在する。
バスケなら高身長のように、選手の方向性がある程度決まってしまう。

しかしゲームを見ると、その方向性は多様であるように思える。
同じスーパーマリオをプレイするにしても、
ゲームセンスのある人は、ガンガンY(B)ダッシュで進めて楽しめるし、
手先が不器用でも、慎重な性格を持つ人なら、歩き移動でミスを減らして、ハラハラドキドキしながら、ゴールへ進んで行ける。

同じゲームを与えられても、その人の能力・性格を生かしてプレイスタイルを変更し、それぞれの楽しみ方をすることができる。

もっと言えば、各々の能力に合わせて、異なるゲームを買って楽しめば普通に楽しい。
瞬発力がなくてSplatoonが苦手でも、思考力のある人なら、ターン制のポケモンをすれば最高に楽しめるだろう。

このように、ゲームには
同じゲームでも、異なるプレイスタイルで楽しめるし、
各々に合った、違うゲームを選べば最高に楽しめるのである。


さてこのようにして、②何かしらの自分の能力を活かせる多様性 があることで、ゲームが「ほぼ全員が”楽しめる・嫌いにならない”」ものになるのである。


~まとめ~

以上のようなことから、ゲームには

①誰でも挑戦できるハードルの低さ
②誰でも自分の能力を活かせる多様性

があることが言える。そして、この性質によって、どのような人でも楽しめる普遍の娯楽性が生じているのだと考えられる。

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