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タイムライン上の朝顔


澄みきった写真を撮る人。水の流れる音、花の香り、屈折した光の切り取り方が絶妙。「おつかれさま」のたった一言に、植物や空、海などの写真がいつも添えられている。

言葉を交わしたことがないどころか、文字でのやりとりすらしたことがない。偶然、たまたま、タイムラインで見かけたときのみ、ただただ勝手に、こちらが癒されているだけの距離。

「注目されたくない」のワードを調べた日に、その人を初めて知った。検索ボックスで同じワードを入力していた私は、彼女の「人からあまり注目されたくない」という投稿に、そっと共感のハートを押した。

自分が注目されていると感じるからではなく、昔から持つこの違和感の正体をそろそろ解明してみたかった。深く悩んでいるというより、同じ感覚の人はいるのかと興味があった。


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小学2年生の頃、雪にまつわる詩を書く授業があった。まわりの子が模造紙いっぱいにもりもりと書き上げるなか、私が書けたのはたったの7行ほどだ。余白だらけで恥ずかしい。そう思ったので、色鉛筆で雪が降り積もる様子の挿絵を描いた。先生に叱られたら後で消そう。それで乗り切りたかった。

後日、私の提出した詩が、教室の後ろの壁に掲示されていた。先生から呼び出しがあり「もうすぐ授業参観なので、そのときにはもっと見えやすい廊下の壁へ移動するね。大変良かったです」と褒められた。

詩の内容はうろ覚えだが、“雪は降っては積もるのにすぐ消える”だとか、そんなことだったように思う。掲示は先生なりの気配りだったのかもしれないと思ったし、何より大人の心を震わせるような技術など持ち合わせていなかったので、なぜ良かったのかさっぱり分からなかった。

「すごいね」「〇〇ちゃんのお母さんが褒めてたよ」そう言葉をもらうたび、自分では駄作だと思えて仕方なかったものに重みが加わったようで、くすぐったかった。同時に、言葉にできないような馴染めなさが生まれ続けた。

自分の何かを評価されると嬉しい。褒めてもらえると自信が付く。暮らしの節目で、ふと「そういえばあんな文章があったような」と思い出してくれる人が一人でもいてくれたら、そんな幸せなことはない。でもできれば、誰が書いたものかはすぐに忘れて欲しかった。

年を重ねた今でこそ「人はそんなに他人のことを覚えていませんよ」と理解できるが、当時はその違和感が蓄積していくようで少し苦しかった。

先生にその気持ちを伝えると、すぐに詩を壁から外してくれた。そして「あなたは今すぐ言葉を書くといい。自分にもっと興味を持ってみなさい」と言われた。日記を書くようになったのはその日からだ。どんなに短くても、一行でもいいから、その日に感じたことを残してみた。20年以上、誰の目に触れるわけでもない手帳で。


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欲しい答えを求めて開く本や記事は、明瞭なものが好きだ。要点は太字で赤く記されていて、難しいことは図解になっていれば完璧である。与えてもらえる知識を飛ばし読みしながら、脳の引き出しへゆっくりと詰めこむ。使いたい場と使いたいものを擦り合わせながら、自分で選別して取り出す。

それがエッセイなどでは、文中に太字が織り交ぜてあると、何故だか閉じたくなってしまうときがある。注力して書かれた部分、響かせたい言葉、こちらへとくに伝えたいこと。本来は明確で読みやすいはずが、書き手のメッセージ性があまりに透けて感じ、その意図に沿って自分が正しく読めるかを先に考えてしまう。

だから、さらっと吹かれて消えていくような、それでいて確実に香りが残るような文章に偶然出会うと強烈に惹かれる。事故のような出会い。「あなたのために書きました」と言われるより「好きに書いたら偶然あなたに響いただけ」と言われたい。


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最近、書く仕事を続けていくうえで今後自分に残るであろう気付きがあった。きっかけとなるメールを夕暮れの中で読んで、教えていただいたことへのお礼を伝えた。図星。味わうべき痛み。言われなければいけなかった言葉。

文章には、自分の声を示す場所と、声を消すべき場所とがあると思う。どう書けば誰に響くかを探していた。プラットフォームの枠に適用する術を知ろうとしていた。その結果、自分の声が消えていた。

私が見つけた彼女の投稿には、いつも声があった。「おつかれさま」。たった6文字の声。それなのに、こんなにも記憶に残る。

よい写真、よい文章。一方は透明が正義だと言い、ある一方は濁りこそ文化だと言う。「リンゴは赤い」と発信すれば「赤くないリンゴもある」「あなたが赤に見えているだけでは」「そもそも赤とは何か」と瞬く間に意見が飛び交って面白い。結局は、自分が何を好きで何を信じ、何を大切にするかだ。


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朝顔が、9月に入っても咲いた。葉は深緑から黄緑へと色を変えているが、花だけはまだぽつぽつとひらく。朝顔の花言葉には「儚い」「冷静」があるのだそう。本当に?水やりができなかった翌日も、風の強い日に出しっぱなしにしてしまった翌日も、こんなに力強く咲いてくれるというのに。

植物に花がつくまでの過酷さがあるように、あらゆることの「表」はその人の結果に過ぎず、水面下には必ず過程がある。誰かの中にひっそりと残り続けるものとは、作品のような完璧な美しさがあるものに限らず、日常を手のひらでおもむろに掴んだような、ぼやけたものだったりする。

私が日々癒されている「おつかれさま」も、もしかすると彼女が水面下で、自分自身へ向けて放っているだけかもしれない。それでも、彼女の目に留まることはないかもしれないこの場所で、ありがとうございますと伝えたい。



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