「……ぇ、ねぇってば!」
クミの声に、ナオトは我に返った。同時に周りの音が耳に入ってくる。
「あ、悪りぃ、悪りぃ。ぼうっとしてた」そう言って、ナオトは氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲んだ。
しばらくすると、またすぐに物思いにふけってしまう。
ここのところ、仕事帰りに橋にいる少女にあっている。
二十分か三十分くらい話してから帰るのだけど、まったくもって彼女が記憶を取り戻す気配がない。少女は橋とナオトしか見えていないようで、いつも橋の近くで佇んでいる。
「この頃、ナオト、いつも上の空だね……」
静かな口調でクミが言う。ナオトは肝を冷やした。クミがこういう口調で言う時はいつだって、とっても怒っている時だから。
「ねぇ、悩んでんだったら言ってよ」
クミの言葉に、ナオトは視線をそらした。
「いや、本当にゴメン、なんでもないんだ……」
現実主義のクミに、少女のことを話したって信じてもらえない。そう考えて、ごまかすようにナオトは言った。
「……ウソだ」
クミが席から立ち上がった。
「ゴメン、帰る……」
ナオトが呼び止める間もなく、クミはきびすを返して店から出ていった。
(……言った方がいいのかな)
窓の外を見ながら、ナオトはぼんやり考えた。
漆黒の闇に、鮮やかに月が出ていた。
先ほどから何回もクミに電話をかけているが、なしのつぶてだ。
なにか用事があるから出られないのじゃないかと考えていてもどうしても悪い方向に思考がいってしまう。
(でも、正直に言ったところで……)ナオトはため息をついた。心の中で信じてもらえないだろうな、と呟く。
小さい頃からそうだった。
……何よりも。
――ねえ、お父さん、ナオトが変なこと言ってるの……。トイレの壁から女の人がみてるって。
……病院に連れて行った方がいいのかしら。
夜中にトイレに起きて、偶然聞いてしまった母親の声。
密やかな声は冷たく響いて、ナオトの心の中奥深くに沈んでいく。
その時の母親の目に、一瞬だけ浮かんだ表情をナオトは忘れることができない。
何か恐ろしいものを見るような、視線。
――あとから分かったことだが、その部屋で若い女性が自殺していたらしい。
どんなに怖い思いをしても、黙っていよう。
ナオトはその日から心に決めた。