短編#004|ふ菓子で撲殺

 ここ最近はだいぶ早い時間に職場に向かう。
 ほとんど誰も降りない駅で車内の混雑をかき分けるのに苦労しながらホームへ抜ける。ちょうどよくすぐ近くにあったベンチにどっかりと座る。こうやって途中で電車を降りる事が多いから早い時間に職場に向かわざるを得ない。
 背もたれに完全に背中を預けてホームの屋根の天井をぼんやりと眺めていると、視界の端っこにゆらゆらとしている黒い塊が見える。
 いま住んでいる事故物件に住み始めて三日目の事だった。
 覚悟はしていた。
 枕元に現れたのは被害者の幽霊ではなく犯人の生霊だった。
 それ自体は珍しくはないのだけれど、厄介なのが「自分の過去に関係のある人物」という点だ。
 しかも明確に「狙い」にきている気がする。
 生霊として現れている事を自覚している。
 とんでもない「力」の持ち主である事は明確だ。


 いま住んでいる「事故物件」で起こった事は「殺人」。それも被害者は一人二人ではない。
 去年の三月にだいぶ世間を騒がせ、連日ニュースが流れていた。犯人の姿も散々流れていた。びっくりしたし怒りがわいたし哀しくなった。忘れたくても忘れられない顔。笠間くんをとんでもない目に遭わせた奴らの主犯格。逮捕されているというのにうっすら笑いを浮かべている表情は笠間くんの件で、この人物に見覚えはないですか? と見せられた写真の人物と完全に一致した。
 先入観をとっぱらいたいのでいつもなにも訊かずに内見に行くのだけれど、アパートへ向かう道に覚えがあったし、アパートに着いた時に一瞬で全てを理解した。いつも案内をしてくれる不動産屋のスタッフである浅草くんもなんとなく察したのだろう、ここは本当に相当やばいですけど大丈夫ですか……? と恐る恐る訊ねてくる。
 成瀬くんが住んでいた部屋の上階。
 一年後に何故、と思ったし訊ねた。
「いやああの連日のテレビでの報道でしょお? 入居者さん達も全員出ていってしまって……あ、でも、不思議なんですけど事件が発覚するちょっと前に出ていってしまった入居者さんもいらっしゃいましたねえ、佐和さんみたいになにか視えるとか察するとかそういう人だったんですかねえ? 一ヶ月も経てば全く注目されなくなって、とはいえ起こった事は消えませんし、取り壊すのかリノベーションするのか、その他諸々揉めに揉めまして……いや、現在進行形ですねえ、揉めています……正直しんどいっすわ……」
 取り壊すにもどうにかしないとという判断でして、と続ける浅草くんの背中を追う。
「どうにか?」
「はい。ついこの間も、もし内装のリフォームをするなら……って下調べにいらっしゃった業者さんが脚立から派手に落下してお怪我を」
「それはたまたまじゃないの? お怪我をされた業者さんにはお気の毒だけれど」
「それが、『足をなにかで切りつけられる感覚がした』と仰ってまして」
「あー……それはなにか」
「ありそうでしょお? 繋がり」
 犯人が逮捕されたからか、成瀬くんが住んでいた部屋を訪れた時に視えた女の子たちは現れなかった。
 このアパートに来た事があるのを浅草くんに言うべきなのか、悩みながら内見を済ませた。
 結局まだ言っていない。


 電車に乗っているだけなのにゴリゴリに体力を削られて、そんな中なんとかかんとか職場に着いた。
「おはよ」
「あ、おはよーございまーす」
「おはようございます」
 高井戸くんと大原くんの声すら頭に響いて辛い。二人とも声の音量はそこまで大きい訳でもないのに。
「え? 佐和さん、大丈夫ですか? めちゃくちゃ顔色悪いですけど」
 そう高井戸くんに言われて、ですよねー、と心の中で返す。
「ほんとだ。具合悪いんですか?」
 見ますか? と大原くんは御宿おんじゅくさんの机の上にあった手鏡を勝手に取って渡してくる。改めて見ると本当にひどい顔色だ。
「ああー……ひどいね」
「二日酔いですか?」
「いやあ、ここ最近はお酒は」
 とてもじゃないけれど呑む気分にならない。
 びっくりしたよお、なにしてるかと、と社長の声がしてそちらを見ると、普段おりていないブラインドがおりている会議室から御宿さんと成瀬くんが出てきている。すみませぇんちょっとお借りしましたぁ、と御宿さんが明るく詫びている。何気なく成瀬くんを見るとこちらに気付いたのか、あっ、というような表情をした後、なんとも云えない表情になっている。
「あ、おはようございますぅ」
 怒られちゃったてへへ、と続けながら御宿さんが自分の机の椅子に座る。
「なーにしたんですかまたあ」
「えー、高井戸さん、そんな言い方しないでよぉ。始業時間前にちょーっと、ちょっとね?」
「なんの説明にもなってない」
「え!? やだあちょっと佐和さん、顔色悪過ぎません!? ゾンビみたいー」
「いやさっき二人にもさあ。あ、ごめん、手鏡借りた」
 手にしたままだった手鏡を御宿さんに返す。
「やだあー、二日酔い?」
「それもさっき言われたんだよね」
 そんなやり取りをしていたらいつの間にか後ろにいた成瀬くんに、佐和さん、と名前を呼ばれてだいぶびっくりしてしまった。いま後ろから呼び掛けられるのはいつも以上に警戒してしまう。ちょっと、と言うので、えーなになに、と返しながら成瀬くんのあとを追う。
「なにどうしたの。あ、おはよ」
「あ、おはようございます」
 成瀬くんが向かったのは台所で、挨拶を交わしたものの黙っている。
「成瀬くん?」
 呼び掛けると周りをキョロキョロしたあと、あの、と言いにくそうに切り出す。
「その、笠間さんの最後の配信っていうやつを、さっき御宿に」
「え?」
「なんか、なんでかまた過去の配信がどこかにあがっていたらしくて」
 なんで? と頭を抱える。一体誰が? なんの為に? 視界の端っこにゆらゆらとしている黒い塊。いやまさかそんな。だとしてもなにが目的で? 笠間くんをいま「生かしている」事は絶対にバレていないはずなのに。
「あの、あれ、本当なんですか? その、いわゆる『演出』とかではなく? 笠間さん……襲われてましたけど……」
 一気に「あの日」の事がフラッシュバックしてぐらりと頭が揺れる。
「え!? 佐和さん!? 佐和さん大丈夫ですか!?」
「なにどうしたの!?」
「佐和さーん、佐和さーん、聞こえますか?」
「やだやだ、どうしちゃったの!?」
「救急車、救急車呼びましょ」
 みんなの声が聞こえはするけれど目の前は真っ暗だ。
 真っ暗なはずなのに視界の隅っこにいた黒い塊の正体の表情ははっきりと見える。
 うっすら笑いを浮かべている。
 あと四年とちょっとなのだ。邪魔なんてされてたまるか。
 そう思ってはいても身体が動かないなら意味がないじゃないか。
 目覚めたいという自分の意志とは反対にゆっくりと意識が遠のいていった。