罪のないものから石を投げなさい

イエス•キリストは、姦淫の罪により石打ちの罰を与えられそうになった女性を取り囲む聖職者や一般の人に、そう述べたという。
そうすると、それまで激昂していた人々は、一人一人また去って、最後は誰も残らなかったということである。
幼少の頃に少し触れたキリスト教で、中でも心に残ったエピソードである。

人の罪を論うことは簡単だ。
特に昨今、それまでなら到底接することもなく、その存在を知ることすらなかった人々の、背景も曖昧な罪と称するものの情報が溢れている。
それに対して、時にはとても辛辣な意見がぶつけられることがある。
意見は意見として持つべきであるし、それを表明することは大事なことであるとは思う。
しかし、強く厳しすぎる意見は、本当にいいのだろうか?
マスコミがよってたかり、本質とは無関係の内容まで論うような”報道”は、どこまで許容されるのだろうか?
罪は罰せられるべきであるが、それを裁く大義名分も権利も、少なくともマスコミにはない気がする。
もちろん市井の人々にもないように思う。
メディアスクラムという言葉があったが、古いメディアが機能しなくなり、代わりにsnsが新たなメディアとなりつつある現代において、そこから発せられる半ば一方的な意見は、新しいメディアスクラムのような気がして仕方がない。
反省はその人の中にしかないし、それはおそらく外からの攻撃的な意見ではもたらされないだろう。


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