拗ねる
私の同級生に、とてもちゃらんぽらんではあるが、鋭い指摘をする男がいた。
就職したての時に、その時のナンバー2に向かって、飲み会の席とはいえ、”だからあんたはいつまでも張りだし横綱なんですよ”と宣った時には聞こえなかったフリをしたが、その張り出し横綱は笑っていた。
引退したボスが、ある時、元の所属先におかしな言動をして現場を混乱させた時のこと。
彼はこう言った、”拗ねてるだけなんだから、うまく扱えばいいのに”。
拗ねる?70に近い爺さんが?と思ったが、彼に言わせると、ほとんどの行動原理は”拗ね”だと。
確かに、行動の元となったと思しきものは、引退したからといって蔑ろにされたと言われても間違っていなそうであった。
でも、引退したんだから、たまにお茶を飲みに来るのはいいとして、それくらいで我慢できんもんかね?
偉くなる人の心持ちはわからないものだと思った。
でも、偉いかどうかはわからないが、漫画なんかに出てくる不良たちは、先輩から気合が入っていないと呼び出されたりする。
これも、指導というよりは、もはや自分の影響力がそこまでではなくなった業界(?)への拗ねなのかもしれない。
その集団で上の地位になる人々は、皆そういう性質を持っているのかもしれない。
つまり、”拗ね”である。
先日、大先輩にある会合で久しぶりにお会いできた。
大学の中堅から外の部長職となり、現在は定年して定年後雇用で悠々自適に暮らしている。
流石に偉くなっただけあって、定年後もかなりの高級取りらしい。
でも、部長の頃が一番楽しかったなと、ぼそっと仰っていた。
また、大学も我々のようなobにいろいろ相談すべきだよ、経験豊富なんだから、と少し寂しそうに仰っていた。
あぁ、拗ねてんるんだとその時に思った。
先輩も偉い方だったのだ。
ただ、上品な方なので、ご自身で心を痛めるのみで行動には至らないのだなと、聞いていて思った。
しかし、考えてみると、ある社会から不要とされる瞬間は誰にも訪れる。
それが能力ゆえか、定年などの社会的な制約のせいかはわからないが。
私も、いずれそうなるだろう。
その時、社会からバッサリと切り離されてどう思うのだろうか?
私は全く偉くないので、あの頃は良かったと思うかは微妙である。
しかし、一体今まで何をやって来たのだろう?もっとこうすれば良かったのではないか?といつものようにグジグジ湿っぽいことを言っては飲めない酒を飲むのではないだろうか?
おそらく退職したら、誰も私のところに尋ねてくることはないだろう。
何かの会合に招かれることもなければ、出席することもないだろう。
今は普通にあることが、ある時を境に途端になくなってしまう。
そこで拗ねて行動を起こせるくらいの人は、きっと偉くなっている人なのだろう。
私には、所詮その程度の能力しかなかったのだと、自己憐憫に浸るくらいしかないように思う。
まぁ、また機会があったら飲もうよ、と先輩は仰った。
その表情は、しかしとても満ち足りていたように思える。
そこには何かをなした人と、そうでない私との大きな溝が見えた。
何かをなしたものとそうでない者の差は、おそらく社会から切り離された時に強く意識されるのだろう。
そうならないようにするにはどうすればいいか?
趣味に走るのもいい。新しいことにチャレンジするのもいい。
つまり、それほど残りのない人生で、それを意識しない何かを見つけていくのも一つの解決策ではあるが、その前にいろんな仕事を片付けろというのが、手っ取り早い解決策なのかもしれない。
さ、論文書かなきゃ。