東京砂漠
もうこんな表現はないのだろう。
都会はとても冷たくて、自分の居場所はなくて、何かに縋りつきたいけれど、知る人のいないその場所ではそんなことも望むべくもなく。
大学に入って、都会の暑さに本当に心を削がれて、私は夜にしか起きることができなかった。
西陽がさす部屋の温度は夕方には40度を指していて、私は辛かった。
田舎の夕方は結構涼しいのである。
同級生は楽しそうにいろんなことをしていたが、私は望んでいたにもかかわらずそこには居場所がないような気がして、いつも一人でいた。
心の拠り所はバクチクであり、the smithsであり、そのほかのパンクロックであり、夜中に放送される映画であった。
その放送の合間に挿入される宣伝は今でも思い起こされる。
何もない学生のことなので、それが何を意味しているのかはわからなかったが、その宣伝で使われている音楽は”東京砂漠”であった。
夜中に一人膝を抱えてみる深夜番組の合間に流される東京砂漠。
あなたのそばで暮らせるならば、辛くはないわ、この東京砂漠。
東京は、なぜかそれを望んできたにも関わらず砂漠で、自分の居場所はなくて、自分は何かになれるのだろうかという不安だけが募った。
それはまさにjay-zが歌ったように、半分は夢破れる悲しい街なのだ。
それでありながら、あなたがいれば歩いて行けるこの東京砂漠なのであった。
誰にも縋ることはできないこの街で、しかしすがれると思う人がいればなんとかsurviveできるような気がした街なのだ。
夢破れて帰ったものもいるだろう。
なんとか成り立ってとどまったものもいるだろう。
その誰もが一度は抱いたであろう、あらゆるものを跳ね返すような都会の冷たさ。
上京したものが一様に抱いたはずのその感情は、しかしもはや昔話でもないのかもしれない。
しかし、その”東京”という言葉が思い起こさせる様々な感情は、まるでnew yorkがそうであるように、世界の誰もが目指す街がもたねばらない重要な付加価値だと思うのだ。
prefab sproutが歌うように、誰もが憧れるような街であってほしいと思う。
そして同時にmanicsが歌ったように、寂しさをとことんまで味合わせる街であってほしいと思う。