死刑制度に思う

この問題は本当に難しい。
世界的に廃止の方向でという話をよく聞くが、ではそれに代わる方法とは?
犯罪への罰は何のためにあるのか?
感情的なものを傍に置いて、科学的な視点から論じることとして、更生を促すというのがその理由なのだろう。
しかし、仮に更生が可能であるとしたら、どれくらいの割合で可能なのか?
どういう傾向の人々が再犯に至るのか?
こういったデータがなかなか見えてこないが、機械学習をはじめとしたAI的なアルゴリズムを立ち上げて、矯正の妥当性を論じる必要があるように思う。
そういう意味では、これは社会全体が被るリスクもしくは得られる利益であるので、データベースの構築は必須であるように思う。
その上で、それこそdavid eaglemanがその著書で述べたように、罰を与えるのではなく脳科学的に矯正を(というと、ちょっと時計じかけのオレンジを思い出すのだけど)行う方向でいけるのだろうか、それともやはり無理なのだろうか?
そんな議論は避けられないのだろうと思うのだが。
これは少年犯罪でも同じで、更生更生というが、本当に更生できているのか?
その元となったデータはあるのか?(これは、おそらく公式にはないだろう。)
それがない状態で、情緒的な判断で更生ばかりを謳うのは、どうにも非科学的で(検証不能という意味で)、個人的には受け入れ難い。
尊敬する西川伸一先生がaasjで取り上げられている論文にはブロックチェーン技術を用いて個人情報を守りながら疫学データベースを構築することができるとある、らしい(https://aasj.jp/news/watch/25218)。
やはり、治安に関わることは疫学的な問題であるとも言えるので、そういう先進的なことを、どこかの頭のいい人はやってくれないかなと思ったりする。

また、やはり更生は無理であり、しかし人道的に死刑は受け入れられないとする。
そうなると代替案としては何になるのだろうか?
無期懲役と簡単な答えは挙がるかもしれない。
しかし、それを支える(?)人材や資金はどうするのだろうか?
それを社会として許容できるのだろうか?
これから老人の介護をする人も減るというのに。
社会インフラすら維持できるか怪しいというのに。

そもそも、一生外に出ることができないと言うことは人道的に許容されるのか?
比較的長い懲役にしても、たとえば20年も離れていると社会は激変している。
今から20年前なんて、iphoneなんて世の中になかったんだよ?
それがスマートフォンという形で人々の生活を大きく変えた。
そんな世界に放り出されて、果たして正しい生活に戻ることはできるのだろうか?
昔、オーストラリアで研究をなさっていた方が久しぶりに日本に戻ってきたら、みんなが携帯を手に持って耳に当てていて、それを見て、日本ではなんて多くの人が痛がって耳を手で押さえているのだろうと思ったという笑い話をしておられた。
その人が日本に来るのは数年ぶりという程度であった。
まだ豪州では携帯はそれほど身近ではない時代の話である。
とまれ、そういう変わりゆく社会からある程度以上の期間隔絶することは、人道的なことなのか?
人道という言葉は、だからこういう時は危険ではないかと思う。

また、万が一判決の過ちがあった場合にはという議論があるのも承知してはいる。
そのためには、公正な判決を下すためには、間違った司法判断が起きないようにするためには、これは捜査の徹底的な透明化が必須であるだろう。
都合のいい証拠や弁護で判決が歪むのは、まず避けねばならないことに間違いがない。
もっとも、個人的には裁判に関わる人々の無謬性というのはおかしな話だと思っていて、誤った判決に対して誰が責任を持つのかという議論がなされないのは何でだろうとずっと思っているのだけれど。
また、職能集団であるはずの弁護士会が、国から付与された資格である弁護士資格を半ば剥奪できたりすることに強烈な違和感を感じている。

人が感情的に飛びつきやすいトピックで自身の主義主張を述べるのはとても簡単で、世の中の趨勢はこうこうであるといって、今風の言い方をすると大きな主語を使って述べるのは、一見人には訴えかけるのだが、そこには私程度でも思いつく細かい問題がある。
だから、そこに至る過程でどんな問題があるのか、それをどうやれば解決できるのか、そういったことの積み重ねでしか、結局誰もが納得できる解決策は生まれないと思うのだけれど。

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