自分にとっての価値は他人にとっての価値になりうるのか
こんにちは。
U/ユウ こと Yuta Hasegawa です。
普段僕が考えていることや思いついたアイデアなどを言語化して記事にまとめることで、頭の中にある考えを整理・具体化したり、読者の方に共有したりできればと思い、専用のマガジンを作ることにしました。
僕自身の「Webノート」的な感覚で書いていければと思っています。思考を整理して後で見返したときに新たなアイデアが閃くこともあるかもしれません。
これから始まるWebノートが未来の自分自身の思考のヒントになればと思っています。
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さて、今回は初回ということで、僕が普段から、これでもかというほどに考えている内容についてまとめたいと思う。
【今回のテーマ】
自分にとっての価値は他人にとっての価値になりうるのか
これは僕が料理をするときにいつも考えていること。
自身の趣味である「料理」。
人間が生きていく中で「食事」は絶対になくてはならないもの。
食事をしなければ生きていくことはできない。
料理を勉強して、ありがたいことに出張料理などで大勢の方に料理を振舞う機会をいただくことがあったり、自分の部屋に友人複数人を呼んで料理を提供したりする機会が増えた。
ある時、僕はこう思う。
「自分が作るこの料理、時間をかけてたどり着いた味、見た目、バランス。これは間違いなく、今まで料理に費やした時間やお金分の価値はあるはず。でも、これは果たして他人にとっての価値になりうるのだろうか。もちろん、自分自身は価値があると思っているし、価値がないと思うようなものを食べてくださる人たちに提供できるはずがない。でも、その料理には本当に価値があるのだろうか。」
料理を提供される側の立場になって考えたときに、その料理に価値があるかどうかなんて一瞬で決まってしまう。
1)見た目
2)味
これら2つが、料理の価値の有無に直接的に関係する要素なのではないかと思う。
つまり、自分がその料理にどれだけの時間やお金を投資して自分の中で完璧だと思うものを作り上げたとしても、提供される側からしたら、そんなものは関係なく、見た目や味で価値を判断する。
ここで料理を作る側と提供される側で少なからずズレが生じており、料理に対する価値の捉え方の違いから、その料理の価値は分裂してしまうのではないか。
料理一品に対する価値は1つではなく、その料理を作った人とその料理を提供された人の人数を足し合わせた分だけの数あるのではないか。
作る側の思う価値が提供される側に100%届くことはあり得ない。
作る側には少なからずバイアスがかかっているし、提供される側からしたら、料理人がその一品にどのような価値を見出しているかなんて自身の中で想像することしかできない。
料理は味と見た目。
その一品に価値がある、お金を払ってでも食べる価値がある、そう判断するのは提供される側であり、料理人に求められるのはあくまでもその人たちが価値があると思えるような料理を作ること。
それらの要素が、提供される側が持つ一定ラインを超えることで初めて、見た目や味以外の部分の要素を伝えることができる。
例えば、その料理ができた背景・ストーリーであったり、その味にたどり着くまでの道のりであったり。
人の考え方なんて人それぞれだし、自分の思考の中に相手を無理やり収めようとするのは違う。
そう考えると、自分にとっての価値は他人にとっての価値にはなりえない。
ただ、これはあくまで料理を提供する側と提供される側の立場を考えたときのもの。
提供された料理を食べた複数人を考えたとき、それぞれが料理に対して抱く感想はそれぞれ異なるはずだが、料理に見出す価値自体にはそこまでの大きなズレは生じないと思う。
もちろん、これは料理を食べる側全員が好き嫌いをしない人たちであることが前提の話であり、嫌いな食材があったり、アレルギーがあったりした場合にはまた話は変わってくる。
ただ、そういったことを踏まえた上で、料理人がその人に合った、その人専用の料理を作って提供した場合、それだけで価値が上がると思う。
全く同じものでも提供する人や環境などが変わるだけでその価値は大きく変化するのだと思う。
例えば一つの商品があったとして、それをAさんとBさんが販売していたとする。
Aさんは人柄がよくとても親切で、常にお客様に合ったものを提供しようと心掛けている。
Bさんはとても不愛想で、無口で何を考えているのかわからず、お客様にも必要最低限の対応しかしない。
みなさんならどちらから商品を購入するだろうか。
おそらくAさんを選択する人が大半なのではないかと思う。
商品だけを見た場合はどちらも全く同じものであるため、とくにどちらかを選んで購入する必要はない。
つまり、何を購入するかではなく、誰から購入するかという点が重要なポイントなのではないか。
商品に対しての価値ももちろんある。
でも、商品よりも、それを販売する人に対しての価値を見出す部分がかなり大きいはず。
それは信頼であったり、信用であったり、様々な要素が絡み合うことで構成されるはず。
購入者の中には、Bさんのあまり喋らないというところに価値を見出して商品を購入する人もいるかもしれない。
つまり、どのような場面においても、価値を見出すのは提供される側であり、提供する側の思う価値は重要ではないということ。
自分自身、料理を作る上で自分のバイアスにとらわれないようにするためにも、友人におすそ分けをして味を見てもらうことで、果たしてそれ自体に本当に価値があるのか、自分が作ったということ自体に価値はあるのかということを判断してもらう機会を設けている。
そこから得られるものは貴重で、改善していくための材料になったり、食べてくれた人がそれ自体に価値を見出してくれたりする。
自分にとっての価値は自分のもの。
他人は果たして自分が作ったこの一品に対して、どのような価値を見出してくれるのか。はたまた、どこをどのように指摘してくれるのか。
そういったことを考えつつ、料理を作り、提供したりしています。
相手を思いやるような料理。
そんな料理を作り続けていきたい。