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【ennui egg#4】
「遺存する呟き」
人と簡単に繋がることができるようになった現代で逆に孤独を感じたり、一人でありながら目に映る液晶には何百の人と繋がっていたり。
そんな一見矛盾しているようなことが、わりかし存在する。
今だったら、子供はグレてしまうかもしれないが私がスマートフォンを持つのは高校生になってからと決められていた。当時の私は携帯電話も持っていなかったし、不思議と必要なかった。
2012年頃スマートフォンが普及して間もなかったのもある。しかし、3つ下の妹は周りの友達が持っているのに耐えられず、中学生でスマートフォンを手にした。3年でスマートフォンというものは世の中に定着し「なくてはならないもの」に変わっていた。
つい最近まで思っていたが自分はスマホ依存症ではないと自負していた。なんて言ったって自分は一人の時間や絵を描く時間が好きだし、妹のように1日中友達とLINE通話なんてしなかったし、父のように食事中にまでスマホでゲームをするなんてこともなかった。
高校時代クラスのグループラインに頑なに入らなかったし、ながらスマホには嫌悪感がある。
そう、私はスマホ依存症ではない。これがなくても生きていけると。
多分、そう思いたかったのだ。
◇◇◇
2014年スマートフォンを手にした私は好きなアーティストの情報をいち早く手に入れたいという理由で「Twitter」をダウンロードした。
それから早9年、一時Twitterを消したりしていた時もあったが、Twitterを1年していなかった年なんてなかった気がする。
呟けば呟くほど、誰かをフォローし誰かにフォローされればされるほど、依存していく。生活に組み込まれていく。
Twitterを見ない日などほぼないに等しい。
ここまでになっても自分はスマホ依存症ではないと思っているのだから、改めて依存症は誰かから指摘されないと気付けないと感じる。
もしくは、依存対象がなくなるか、だ。
2022年4月の「イーロン・マスクTwitter買収」からTwitterは目まぐるしく変わっていく。
たまにしか使わないものが少々変わったところで別にどうってことはないが、毎日使うものが少し変わるだけで慣れで便利にしていたものが一気に使いにくくなる。Twitterなんて毎日どころか毎時間レベルだ。それが、何度も繰り返されるのだから嫌気がさす。
でも、結局Twitterに代わるSNSなど存在しなくて、人間住めば都。慣れれば良いのだ。
イーロン・マスクが買収してから私感覚「つかいにくくなった」のは確かではあったが、他のSNSに移ろうとかそういう考えはなかった。
いや、9年という歳月が私の腰を重くしていた。
何より、Twitterがなくても生活に支障はないと思っていたからだ。
結論から言うと、私はTwitter依存症だ。
7月1日に発生したTwitterのAPI規制は驚くほど自分の依存度を顕にした。
読み込めるツイートが制限され、見れなくなってるとわかっていながらもTwitterを開き、今何が起こっているのか検索し、仕方がないからiPadで絵を描こうとするも、Twitterを癖で開いてしまう。
なんなら、ツイートできない、Twitter不具合ということをツイートしようとしたぐらいだ。
第三者から見れば滑稽だが、やってる本人はいたって真面目なのだから恐ろしい。
生活の一部どころではない、もはや人格。
人格にTwitterが組み込まれている。
◇◇◇
Twitterが使えなかった1日と少し、如何に自分が依存していたかと、Twitterの重みを感じた。
よく言葉の規模が大きいと言われるが、今の自分の創作はTwitterあっての創作だと断言できる。Twitterという機能を使って出会った人のおかげという言い方でもいい。
調べたところ、2023年でTwitterを利用している人は世界で3億。
Twitterという世界で人と人が繋がるのは簡単だ。「フォロー」をタップすればいい。
しかも、繋がる前にその人の趣味や考え、イラストを見ることもできる。
話しかけていいか、どんなものが好きか、自分の身なりは変ではないか、そんなことを考えなくていい。匿名とは便利だ。
だからこそ、現実世界よりも脆い繋がりになる。Twitterを辞めれば、もう2度とその人とは話せないかもしれないし、たまたまタイムラインに流れてきたイラストをもう一度探すのは難しい。
フォロワー数を増やす為に繋がるなんてこともある。
そんな脆い関係が蔓延るなかで、手放したくない関係もTwitterにはいる。
Twitterというものがなければ関西にいる私が関東の人とで会うことはなかったし、
Twitterというものがなければ東京に行った先輩ともう一度話せる機会はなかった。
そういう繋がりがあって今私の創作はある様な気がする。
長くなったが、結局私はTwitterを開くのだ。
人格であり、繋がりであり、創作であるから。
でも、今いる人が全て別のSNSに行ったら私は簡単にTwitterを手放すんだろうな。
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環境的レリック。
私は変わりゆくものに適応していく必要が
あるのかもしれない。