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“ある視点”

このnote「ある視点」は、私が社会との接点において日々感じる違和感について考察した結果を記すものである。

筆者の経歴

私は1984年、関東地方で生まれた。ツインピークスのような閉鎖的なニュータウンで育ち、いわゆる有名大学に進学した。大学ではIT関連やビジネス的なこと(リーダーシップ論やら組織論やら会社法など)を勉強した。アルバイトでITベンチャーに雇ってもらったことで、サーバー構築からプログラミングまで一通りできるようになった。その経験を売りにして転職でもするかのような感覚でITコンサルティング企業に就職した。そこから社会に出てみると、学生時代に培った技術などはほとんど使わない仕事ばかりであった。巨大なシステムの一片を担当するような仕事ばかりで、誰の役に立っているのかも分からないようなものを作ったりメンテナンスしたりして過ごした。そのうち不安になり、知人のやっていたITベンチャーに転職した。そこでは学生時代に培った知識を活かした仕事ができはしたものの、社長に着いて行けずに結局元の会社に戻った。(「獣になれない私たち」というドラマで出てきた九十九社長を現実に召喚したような社長であった。)最近、燃え尽き症候群というワードがまた流行っているが、アスリートのように完全燃焼するのではなく、不完全燃焼であることが多いようである。社会に出てからというもの、おそらく私もずっと不完全燃焼なのであろう。40手前にしてそれを自覚するようになった。私の経歴はそんなところである。

現実の補助線としての映画鑑賞

私はよく映画を観る。映画から現実を考えることが好きなのである。物語はつかみどころのない現実に補助線を引いてくれる。母親から小学生の時に言われたのが、映画から人生を学べ、であった。母も文学部の出身であり、多少の素養があったかもしれないが、映画が現実と完全に切り離された独立したものではないと言うことを感じ取っていたのだろう。私にも子供がいるが、おそらく似たようなことを伝えるであろう。人生を学ぶのではなく、現実を”センス”しろ、と。センスと言う言葉がある。曖昧な言葉であるが、これは現実を知覚する能力を指すのだと考えている。センスが良い、と言うのはある”意味の場”において、その現実を鋭く知覚して、その上で振る舞った結果、それを見た人の中の”意味の場”において、うまく補助線が弾けたときに、生まれるものだと考えることができる。現実を新たな視点で見られるようになること、それがセンスメイキングなのではないか。”ある視点”という映画賞があるが、フランス人は良いセンスをしている。何気ない一言で、特別な価値観を生み出しているのだ。

これは疑似鍵付きアカウントである

そういうわけで、このnoteはとても個人的な“ある視点“を持って現実を見つめるという行為の記録である。記事を1本500円に設定するが、それは誰にも読んで欲しくないからである。誰だかわからないような人の、よくわからないような記事に500円もの金を払う人はいないであろう、という疑似鍵付きアカウントなのである。ただ誰かがお金を払ってこれを見てしまう可能性がある、と言う緊張感を作り出してみる、と言う実験でもある。

なので、ぜひ読まずにそっとしておいてもらいたい。


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