父が遺してくれたたくさんの思い出と愛情で家族は今日も幸せに生きています
9月。
71歳で亡くなった父。
糖尿病の合併症が少しずつ父の体を蝕んでいっていた。
別れは急にきた。
父方の祖父母、父、母、兄、姉の7人家族だった私。
家族は仲が良く、私の周りでは7人家族が珍しく大家族であり、自慢だった。
近くには父の妹家族5人が暮らしていた。
母方の祖父母は九州に住んでおり、私が4歳の時に祖父が他界。
記憶はあまりないが、笑顔の優しい祖父でよく膝の上に座らせてくれて
「ぺっぴんさん」と言ってくれていた。
祖母は無口で黙々と動いていた為、怖いイメージがあった。
母から聞いたが嫁いだ時に祖父の家族が厳しく笑って話すような環境では無かったようだ。
私が中学生になり会いに行くと笑顔を見せて話す祖母になっていた。
きっとあの姿が本当の祖母の姿だったのだろう。
私は両親が共働きだった為、昼間は一緒に住んでいる祖父母と過ごしていた。
私はおじいちゃんこでお風呂も寝るのも祖父でないとダメだった。
そして家族からもおじいちゃんはアンタを1番可愛がっていたと言われる程仲が良かった。
祖父はとても優しくいつも膝の上に座らせてくれてたくさん遊んでくれた。
母に怒られるといつも泣きながら祖父の所へ行っていた。
旅行に行ったり家族の思い出をたくさん作ってくれた祖父。
しかし、祖父は癌に侵されており、入退院を繰り返すようになり、一緒に夜寝ることも出来なくなった。
ある日、病院に呼ばれて私達の家族、父の妹家族みんなで行ったが、
ドクターや看護師がバタバタして
祖父に付けられている機械が音を鳴らし、
家族が祖父のベッドの周りで泣いたり呼びかける病室で私は小さいながらに祖父との別れを察知し
怖くて病院から逃げた。
病院から家まで走り、お仏壇に
「おじいちゃんを助けてください。」と何度もお願いした。
すると10歳上の兄が私を迎えに来た。
私を自転車の後ろに乗せ、病院に戻る道中で
普段は無愛想な兄が私に
「おじいちゃんが頑張ってるのにお前がいなくてどうするねん。」と言った。
この言葉は何十年経った今でも心に残っている。
病院に着くと祖父は奇跡的に意識を取り戻し、
落ち着いたので祖母、両親、叔母夫婦は残り、
子どもたちは自宅で待っていた。
帰りに「おじいちゃん、またね!」というと
目を閉じたままの祖父が「おぅ。」と返事をしてくれた。
その日の夜、祖父は天国へ旅立ったのだ。
悲しいが何故だか涙が出ない。
人は本当に悲しいとすぐに涙は出ないものだと感じた。
告別式の日、私は涙が止まらずずーっと泣いていた。
それを見ていた近所のおばあちゃんがそれから毎日家に来て私に手作りのぬいぐるみなどをくれたのだ。
おばあちゃんは小さな私が祖父を亡くし泣いている姿がとても辛く、元気になってほしいと思っていたと後から聞いた。
出棺前の最後のお別れの時、孫達はそれぞれ手紙を書き祖父の棺の中に入れた。
それからしばらく祖父の入院していた病院の近くを行くと胸が苦しくなり近づけなかった。
これが私が最初に経験した身近な家族との別れだった。
〜続〜