複雑さと人間の対峙

 複雑に存在しているものを、何かで区分けして単純にすること(単純に見ること、見ようとすること)は、決して悪いことでは無い。そうすることで物事がよく見えてくるという場合は往々にして有るし、そういう行動によってでしか読み解くことの出来ない「複雑さ」も存在する。つまり、「単純なものが幾つも積み上がっていて、それらの複雑な関係性によって出来た複雑さ」なら、それを構成する単純なものたちを一つ一つ綺麗に並べていくことで、複雑さを解消することが出来る。例えば、絡まったイヤホン。落ち着いてよく観察してみれば、そこには私たちにもちゃんと理解することの出来る論理が有る。自分の力で分解して腑に落とすことができる種類の複雑さ。

 でも世の中にはもう一つの複雑さのタイプというものがあって、それはもう我々にはどうしようも出来ない、生まれながらにして複雑なものたち。例えるなら長編小説、夏の庭の雑草、寝起きの髪の毛。

 複雑なものを複雑なまま受け入れることは、あまり実質的な前進を生まないことが多い。「複雑である」ということは言い換えれば「私には分からない、または分かりづらい」ということでもあって、ならばそれらは直接的・説明的な言葉に落とし込むことが出来ないということでもある。言葉に出来ないのなら、他人と共有しづらいのは当然だ。私たちは個人間における共有の術をそれほど多く持っているわけでは無い。

 でもやっぱり、分からなさを理由にして急な単純化を求めてしまうと、何かを見誤ってしまう気がする。もちろん、自分に理解できない複雑さをそのまま受け入れることは、とても諦めのような感じがして怖いけれど。幾つもの「コレはあのときのアレと似ているけれど、でもなぜそれがそうなっているのかは私にはわからない」という感覚を、ずっと持ち続けながら生きること。たぶんそのうち、相似形の何かがまた目の前にあらわれる。でもそのときだってせいぜいが「あれ、これはまたあのときのアレと似てるような...」くらいなもんで、別にはっきりした答えにたどり着くはずがない。

 まあとにかく、複雑さの中に存在している単純さの尻尾を捕まえても、慌てないこと。感覚が論理よりも先にくることを、許容すること。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?