初雪の日

 村を包む空気は十一月を境に一気に温度を下げるが、この家の中に逃げ込んでさえしまえば、二重扉と石油ストーブのおかげで充分に暖かい。そのことを思い出したのは、小さい頃に住んでいたこの家に、六年前に戻ってきてからのことだった。

 息子と妻はまだ二階で寝ていた。朝の畑仕事を終えたあとの、静まり返った居間で完全に一人になる時間を、私はいまだに持て余してしまう。腰が据わらないのは、部屋がやけに広いせいかもしれない。体中の細胞がその身の固定を拒んでいるが、それは無視して座布団の上にあぐらをかく。とりあえずのコーヒー。インスタントと言えばあまり聞こえは良くないが、まずくはない。

 郵便受けから抜いてきたばかりの朝刊を座卓に広げる。社会欄のページを開くと、一枚のモノクロ写真が目についた。そこに写る童顔のサッカー選手のことを、私は少しだけ知っていた。彼は私よりも一つ年下で、この村のチーム――正確には「この県のチーム」なのだが――にも一年だけ在籍していたことがあった。青年時代よりも一回り大きくなったように見える彼の体躯は、彼がその時間の中で積んできた経験の重みを感じさせた。そして、写真の傍に小さく掲げられた見出しを目にして、私の全身が、音を立てて止まる。

「サッカーJ1最終盤、古豪横浜の主将が十一年前のリベンジ誓う」

 そう、そうだった。2019年のあの日、マリノスはリーグ優勝を逃した。

♢ ♢ ♢

 あの年のマリノスの快進撃を、私は二階のバックスタンドから見守っていた。やたらと広いあのスタジアムの中でシーズンを通してずっと同じ座席から観戦するのは、私にとってその時が初めての試みだったが、そうすることを心に決めてしばらくは、私になにかちゃんとした価値のようなものが誰からともなく与えられたような気がして、日々ひとりでそのことを思い出しては逐一満足していたものだった。私の居場所は、大きくて丸い柱のすぐ下の、通路側から数えて八番目の席だった。

 私には、一緒に試合を見る友人がいた。決まった場所で試合を見るようになったのも、それが理由だといっていい。とはいえ、私はあまりその友人についてよく知っている訳では無かった。ホームゲームの日に隣同士の席に座って、試合が始まれば少し喋り、そしてそれが終わればほどなくして解散するような、そんな間柄だった。彼とスタジアム以外の場所で会ったことは無い。私たちは、スタジアムから帰るのに使う駅が違うのだった。

 私が見知らぬ人に自分から声を掛けるはずは無いのだから、たぶん二人の関係は彼のほうから始まったのだと思う。彼はいつも小さな、しかしよく手入れされているのであろうカメラを首にかけて、私の前にあらわれた。背は私より少し低く、いつも淡い色のジーンズに黒いキャンバスのスニーカーを合わせていて、なんとなく感じのいい雰囲気があった。

 写真撮影が好きであるということ以外に私が持っている彼の情報は、結婚はしていないということ、市外に一人暮らしであること——前に県央の方だと言っていた、それにその髪の毛は生まれつきの天然パーマであることくらいだった。でも、そういうものは私たちにとって——少なくとも私にとっては、さして重要では無かった。

 こうして思い出してみても、そのスタジアムにおける空間の愛し方が私と最も近かったのは彼だったと、ちゃんと確信することができる。私たちは、スタジアムでユニフォームを着たことがなかった。他にも、気に入った応援歌以外は歌わないところや、周りにサッカーファンを公言しないところや、そういう他の人たちとは違うところがあって、まあとにかく私たちは、そういう類の、普通は理解され難いような感覚を存分に共有していた。

 そしてあの日の、試合終了を告げる笛の音を聞いているときも、彼は私の隣にいた。まったくの悲劇を目の前にして、私はしばらくの間ピッチをあても無く眺めていた。ふと彼の存在を思い出してそちらの方を見たが、彼の表情は構えたカメラに隠れて見えなかった。その代わりに、ぱち、ぱちというシャッター音が、彼と私だけの空間に響いた。彼はひと通り終えるとカメラをゆっくりと下ろし、私の目をちゃんと見てから「残念だったね」と言った。そして今度は私の方にカメラを向けて、一枚だけ、写真を撮った。

 年が明けて最初の試合、つまり2020年の開幕戦の日、私は前の年に座っていたのと同じ座席に腰掛けて、彼のことを待っていた。彼の指定席に、控えめにマフラーを置いて。しかしほどなくして試合が始まって、私はすぐにそれに夢中になった。前半が終わったときに彼の不在を再び思い出したが、彼のことなのでどこかでふらっとやって来るのだろうと思っていた。果たして、彼は最後まで現れなかった。もしかしたらスタジアムの中のどこかに居たのかもしれないが、少なくとも、彼が三ヶ月ぶりの姿を私に見せることは無かった。

 帰り道、私は他人事のように、彼はあの日の私の写真を現像したのだろうか、それともデータで保存しているのだろうかと、そんなことをぼんやりと考えていた。リーグが中断してからしばらくも、私は彼の存在について思い出したり何か書き留めたりしていたが、結局その年のリーグ戦は丸々中止ということになって、その決定がなされる頃には、自分がずっと同じ席に座って試合を観ていたという鮮やかな思い出すらも、すっかり忘れてしまっていたのだった。

* * *

 眠気がすっと引いていく。身体を起こすと、目の前には一房のブドウの乗った皿があった。それは妻が私のために冷蔵庫から出して用意したと思われる、今年最後に採れたブドウだった。

 そこに置かれてからしばらく時間が経っている様子で、ブドウはしっとりと全身に汗をかいていた。私はまずそこから一番小ぶりな粒を選び、口に入れて噛んだ。はじめは毎回皮と種とを丁寧に取り出していたが、いくつかを食べているうちにそれも面倒になって、最後の二粒は一気に放り込んだ。

 と、窓の奥に気配を感じ、背すじがさらに一つ伸びる。長い冬のはじまりを告げる、平年よりすこし遅い初雪がちらついていた。

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