無数の中から選び出す、そして再び構成すること

 受容の方法として、小説とサッカーはよく似ていると思う。私はこのことを私の中の割と深いところで、感覚的に確信している。ただこういうのは言い出しづらい雰囲気があるし、正解の設定がされていないものだから、なかなか頻繁に言葉にしてみようとは思わない。でも今日はその野暮の山を一つ越えてみる。だからこれは特別な文章。二つが似ているという私の確信を下支えしているであろうものはいくつかあるし、それをここで羅列することも出来なくは無いだろう。しかし、そうやって何かを明らかにしてやろうと鼻息を立てるような態度はあまり求められていないはずだ。ならば別のやり方で。

 小説を構成する文章のうちのすべてに深い意味・意図を見出すことが出来る人はいない。同じように、サッカーの試合を見てすべてのパスに、ドリブルに、振る舞いに、それぞれ説明を付けることの出来る人もいない。この点が、今日の私の主張のうちの最も大きなものだ。小説世界にも、サッカースタジアムにも、そこには膨大な量がある。「膨大な量の〇〇」と書かないのは、それがたとえば「表現」とか「芸術」とか「物語」などと言い換えることが出来そうで、しかしそうやって一つの言葉に集約させることは絶対に出来ないと知っているからだ。外面で見ればそれ(〇〇)は先に書いたように「文章」「パス」「ドリブル」となる。とにかく、そこには膨大な量のいろいろがある。そして私たちはどこまでも都合よく、受容する者それぞれの身体感覚でもって、そこにある「いろいろ」のうちの意味を規定し、推測し、それらを集めて物語を再構成するのだ。この小説はこういうものだ、あの試合はああだった、と語るために。

 ところであなたは、一度でも小説を書いてみようと思ったことがあるだろうか。私にはある。そしてその次にこうも考えたのではないだろうか。「どうして、小説家という人種はあんなにも長い文章を書き続けられるのだろうか」と。これも、私には経験がある。早い話が、物語というものは、皆が思うほど理詰めで生まれているのではなく、あくまで感覚的に紡がれたものであるから、というのが問いに対する私の見立てだ。「登場人物がひとりでに歩き始める」と語る小説家がいる。「身体が勝手に動きました」と話すサッカー選手がいる。あくまで感覚的に生み出されたものを、つまりは生み出した当人にだって論理立った言葉にしようがないものを、どうして赤の他人が満足な説明をつけることができようか。そんなことができる人がいるならば私に是非教えていただきたいものだ。

 さて、私は先日、久しぶりにサッカー観戦仲間の人たち(実際に隣で見たことは殆ど無い)と話をした。もちろん試合はずっと無いしその話をする必要もない場なのだけれど、私たちが集まるとサッカーの話になるのは自然なことだ。

 途中、ある人が皆に聞いた。「みなさん、試合を見るときはどういう見方でやっていますか?」(たしかこんな調子だった)。私はそれを耳にしたとき、これから起こることはきっと素晴らしいことだ、と思わずには居られなかった。果たして、ある人は問に対してAとこたえ、またある人はBとこたえた。私はCとこたえた。結局、そこにいる皆のこたえは、やはりすべてが異なるものだった。私の予感は遂に現実となった。

 ミリオンセラーなら百万人の人間が、あの日の日産スタジアムならば六万三千人の人間が、皆で同じものを受容し、しかしそれぞれの解釈を生み出す。そこには一切、同じものがない。「私たちは違う人間である」。そのことを証明しつづけるからこそ、小説やサッカーは私を否応なく惹きつける。

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