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朝ドラと哲学

朝ドラ「エール」で朝ドラ観賞デビューし、「おちょやん」も見ている。

https://www.cinematoday.jp/news/N0120203

千代みたく子供が大人を言い負かせるだけの知恵、世間を知ってる訳ないから、そこはフィクションとして楽しんでいる。

主体的に人生を泳ぐのか、流されるのか、によって満足度は変わる、ということを物語の序盤に表現している点において、物語のメッセージ性においても個人的には期待値が高い。

千代は、隣近所に「幼くしてお母さんを亡くしたかわいそうな子」と言われれば、「うちはかわいそうやない!」と言い、父と継母から丁稚奉公に出されれば「うちがあんたらを捨てたんや」と言う。

いずれも、人生の物事をとらえるのはあくまでも「自分」だ、と千代は幼くして主張しているのである。
親から捨てられた、だと子供が一方的に弱くて惨めさや悲哀があるけど、「自分」から親を捨てた、だと限りなくフェアに近く、人間対人間、という図式になる気がする。

自分として生きる、人の生きざまってのは正にこれだ、と最近思う。

自分というフィルターを通して物事をとらえる、考える。
フィルターの形成には当然今までの経験、岐路に立たされたときの無数の選択、トライ&エラーが関わっていて、それは一人一人違う。

自分フィルターを通して最終的に、誰かと同じだっていいし、もちろん巧拙も関係ない。
まず「自分」として考えること、結論に至るまでの紆余曲折、過程、それこそが自分として生きる意味だと思う。

パスカルさん、「人間は考える葦である」、とはよく言ったもんだね。知らんけど(*´-`)

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