第三話/青年ソドム①【呪いの箱庭】
〈12/傷のありか〉
ルノーは跳ねるように、家の階段を一段飛ばしで駆け下りる。今日は不思議と体が軽い。
夏の暑さなど気にも留めず、ショーウィンドウ越しに悩みに悩んだ装いに彼の母は「あらまあ」と頬杖をついた。
「ルノーったら。随分とめかし込んで何処か行くのかい」
友達の家!
いつになくはつらつとした声に、母親は目を細める。
「お友達って、お世話になっているガルニエ様のお宅の」
「あー、それとは別の。一緒にクリスマスマーケットに行ってくれた奴だよ」
「ああ、あの子。いつも良くしてくれて、お礼したいわねぇ。今度うちに連れてきたら?」
「良いんじゃないかな。きっと、あいつも喜ぶよ。じゃあ、行ってきます」
八月の半ば、降り注ぐような麗らかな日差しを浴び、ルノーは飛び出した。
今日は初めてレイ家に赴く日。普段ガルニエ邸へ行くときも、失礼の無いように気を遣ってはいるが、今回は特に意識している。グザヴィエの両親に少しでもいい印象を与えたい、そんな心ゆえに。
いつからか、うっすらとした自覚が芽生えていた。ユーゴ、ベルナール。皆、優しく聡明で素晴らしい友人だ。彼等には、いつも助けられているし、尊敬もしている。
だがグザヴィエは、ルノーの中で三人とは別の位置にいる。彼等と同じ、素晴らしい友人であることに違いは無いのだが、それ以上に危うく異質で、儚い。自分が彼の隣にいても良いのだろうか、と錯覚させるほど、グザヴィエの存在はルノーにとって格別の存在だった。
約束の待ち合わせ場所に行く道の途中。道の途中にグザヴィエの姿があった。美しい白銀の彼は、街中でもよく目立つ。観察してみると、どうやら彼は忙しなく辺りを見回しており、ルノーの姿を見つけると、困惑した面持ちで話しかけた。
「お前、急にいなくなるの止めろよ」
え、と思わず聞き返す。自分は今、家からここまできたところだと話すと、彼は首を傾げた。
「でも、さっき会ったじゃないか。よそよそしく道聞いてきたくせに逃げやがって」
「嘘だぁ、人違いじゃないのか」
「でも、お前だったんだって。俺が間違えるわけないだろ」
それでも違う。言い切れば、グザヴィエは「お前がそう言うなら」と首をかしげる。
「他人の空似でも、俺が間違えるか?俺だぞ」
「ほら、僕兄弟多いし、誰かと間違えたんじゃないかな」
「それでも、うぅん……」
やけに強い自信だ、とからかい。彼の家へとついていく。付き合いは長いが、レイ家に行くのは初めてだった。誰かの家に集まる時は大抵、ガルニエ邸と決まっていた。
「グザヴィエの家ってどんなの」
「ああ、別に大したことねぇよ。ユーゴん家みたいにでかくねぇし。使用人も口うるさい年寄りが一人だけ。見た目だって古くさいもんだ。ほら、アレだよ」
指さされる先に見えて生きたのは、小さな屋敷。古典的美しさを兼ね備えたバロックの趣残る出立だ。壁一面に這う蔦のせいだろうか。古い建造物が多いこの辺りの中でも、特に古く見える。歴史的建造物と称して差し支えないだろう。
「どうだ、きったねぇ屋敷だろう」
「そんなことないよ、荘厳で趣がある。僕は好き」
そうかよ。
ふい、とグザヴィエは他所を向き、わざと足を鳴らして屋敷の扉を開ける。
「今日は親は魔書協会の会合で、メイドしかいないんだ。マリアム、マリアム! 珈琲の準備」
そう、やや乱暴に家の中へと声を掛ける。奥から、ハイハイと豪胆な女性の声が聞こえた。現れたのは、白髪混じりの黒髪をまとめ上げた、中年のメイド。メイドと言うより、酒場の女将と言った方がいい雰囲気だ。彼女は丸い頬を持ち上げて目を輝かせる。
「あらあらまあまあ。随分と愛らしいおぼっちゃまですこと。どちらのご出身で?おいくつ?」
「やめろマリアム。そいつ俺よりも三つ上だぞ。ルノー。そいつは話すと長くなる、さっさとこっち来い」
「う、うん。分かったよ」
グザヴィエに手を引かれ、屋敷の一番奥の扉へとに連れていかれる。そこが、例の工房だと告げられた。
「十何年使ってないからな。お世辞にも綺麗とは言えない。まあ、入れよ」
そう促されるまま、ルノーはゆっくりとドアノブを押し開けた。うっすらとした黴と埃の匂いと共に、小部屋の全貌が視界へと飛び込む。壁一面に敷き詰められた資料と道具の数々。加えて年季の入った、されど状態のいい装幀道具の数々。
家にまともな作業場所のないルノーにとって、宝の山だった。
「ある程度片付けさせたんだが、まだほこりっぽいな。窓でも開けるか」
「圧巻だよ。工房というか、最早歴史資料館だ。どれも綺麗で……状態もいい。素晴らしいよ」
目を輝かせるルノーに、グザヴィエはいくつかの画集を差し出した。全て装幀史に関する資料や、過去生み出された魔書の設計図を纏めたものだ。中には数世紀前の物まで存在する。無粋ながらも値段の想像をして仕舞い、気が遠くなる。
「好きに見ていろ。ここにあるのは全部、うちに代々引き継がれてるのと、母方の祖父が使っていたものだ。数年前亡くなった際寄越されたんだが、知っての通り俺には無用の長物だからな。欲しいなら好きなだけ使ってくれ」
「ほ、本当? これ、博物館で展示した方がよくないかな。それに親御さんは」
「親もお前が使うことに賛成している。硝子箱の中で眠らされるより。誰かに使ってもらった方が、道具も本望だろう。飲み物持ってくるから待ってろ」
グザヴィエは吐き捨てるよう言い残すと、茶菓子を取りに部屋を出た。
一人残されたルノーは、部屋の中をぐるりと見渡す。見ればみるほど、心が躍った。
一冊の本を手に取った。それは一般的に販売されている書籍ではなく、丁寧に編み上げられた装丁。どうにも魔書ではないらしい。題名は『呪いの真実』、著者名は、
「ルノー」
「は、あ、はぁい!」
思わず、本を後ろ手に隠す。茶を乗せたトレイを抱えるグザヴィエが、いつもの不機嫌な顔でそこに立っていた。
「気になる本はあったか」
「うん。幾つか借りていくよ」
「わかった。好きな時に返してくれ、もちろん返さなくていいけど」
小気味いい陶器のぶつかる音。そのまま放り置いただけの古い作業台の上に、珈琲がのせられた。
「いつものビスキュイだけどいいか」
「もちろんだ。一つ、いただくね」
差し出された皿には、いつもとどこか様子の異なるビスキュイが乗っていた。普段学校で摘むものより少し……いや、かなり歪だ。菓子作りの素人が作ったかのような、ボロボロの形状。誰が作ったのか、一目瞭然だ。一口かじると、いつも以上に大粒のベリーが口の中で転がり出す。
「とてもおいしい。今日はいつもより、一段と。なんでかな?」
「そうか、よかった」
言葉言葉の僅かな隙間に、小さな鍵の音が鳴る。
「座って食え。この場にベルナールがいたら、行儀が悪いと叱られるぞ」
たしかにね、とルノーは近くにあった低い脚立に腰かけた。
整頓されているが、うっすらとした黴のにおい漂うこの部屋の空気はどこか落ち着く。
きっと、彼と出会った旧校舎の一室と似ているからだろうか。
最後に訪れたのは、きっともう一年以上前だ。あっという間の出来事だったね、と芽吹くような懐かしさが、心を満たす。
「ほら、珈琲」
「ああ、ありがとう」
ふと、グザヴィエの指先が触れた。途端に彼は頬を紅潮させ、俯く。
いつからだろうか。彼がこうして、目をそらすことが増えたのは。
「ねえ、グザヴィエ」
なんだ、と合わない目線が言う。
「あのね、僕さ」
聞きたいことがあるんだ。
言いかけた瞬間、目の前の景色が歪んだ。透明な水に落ち他絵の具のように、どろりと溶け、歪み、平衡感覚が奪われる。
「……? あれ」
指の隙間から、カップが滑り落ちる。繊細な陶器は床板へとたたきつけられ、高く、美しく、繊細な音とともに飛散した。
「あ、ごめん……折角のカップが……」
ルノーは破片を拾い集めようと、床へと手を伸ばす。瞬間、体の重心がぐらりと崩れた。そのまま、温く濡れた床へと沈む。細かな破片が肌に刺さり、ちくりと痛みが走った。
「何してんだ。大丈夫か、ルノー……、?」
あああ、ごめん。うっかりしていたよ。
そう笑って、起き上がるつもりだった。だが、体に力が入らない。それどころか、舌すらまともに回らない。僅かに動く指先を震わせながら、声に鳴らない呻きを零すだけだ。
「え……あ、ぅえ……」
何故? どうして?
状況を理解できないルノーは、視線でグザヴィエに助けを求める。彼の目線を伺うと、確信に近い信頼は、赤色の視線によって儚くも打ち砕かれた。
表情のない、濁った泥のような視線が、ルノーを見下ろしている。動く素振りなど一切見せず、ただじっと。
心臓に爪を立てられるような恐怖感がルノーを包む。二人の間に流れる空虚な時間が、永遠にも感じられた。
暫し、氷のような静寂流れる。張り詰めた空間を打ち破ったのは、グザヴィエだった。彼は強い力でルノーを押し付け、転がったカップの破片を一つ握りしめる。それを見にした瞬間、喉がきつく閉まる。
無骨な手から滴る血液が、ルノーの頬に数滴垂れた。
「グザヴィエ?」
××××。
どうして、
悲痛な叫びは、声帯を通る雑音となる。いつのまにか頬をなぞる涙に視界をにじませながら、懇願する。それでも彼は止まることなく、鋭利なそれを振り上げた。
入念に研ぎ上げられた、陶器の光沢。
切っ先が喉に突き立てられた瞬間、震えた目が頬が、指先が、熱くなる。
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