第三話/青年ソドム②【呪いの箱庭】
〈13/愛を喰らう〉
荒い呼吸音と、じっとりとした空気のなか、ルノーはすぐ目の前に横たわるグザヴィエを、呆然と見下ろす。目眩でぼやける視界のなか、無造作に床へ広がる色素の薄い柔らかな髪に、赤い斑点が散らばっているのが見えた。
嫌でも入ってくる刺さるような鉄の匂いは、血。
生きている。
それだけが解る呼吸音に安堵し、ルノーは自分の首に触れた。生温く、さらりとした液体が指先を染める。
赤い。血だ。
瞬間、どろりと溶け出す緊張によって、全身に重い怠さを覚える。
ああ、いやだな。
痛みすら、まるで他人事だ。それほどに、そう思ってしまいたいほどに、あの一瞬の出来事はルノーの心を削いだ。
あの時、僅かに動く指先で魔術を放った。無我夢中で放った魔力は、陶器の破片が自身の喉に触れた瞬間、目の前の相手を容赦なく襲う。ルノーの生まれ持った性質である理の魔力は、グザヴィエの体へ直に入り込み、彼の体を睡眠状態へと導いた。
幸い、刃はルノーの喉に致命傷を与えることはなく、肌と血管に致命傷にはなりえない傷を与えるだけだった。血液量だけはいやに多い。昔からよく怪我をしていたが、こんなにも多い出血は初めてだった。
「……」
血液や臓物の類は素体解体で見慣れていたと思っていたが、いざ自分の血液を見ると、怯むものだ。心と相反するように、口元は嗤った。
静かな部屋に響く寝息と荒い呼吸。そして、ぼんやりと点る治癒の光。試みた自己治癒は成功し、傷口は塞がった。
「グザヴィエ」
僕は君を知らぬ間に傷つけてしまっていたのだろうか。傷つけたことを話せないほどの、存在だったのか。嫌いなら嫌いだと言ってくれればよかったというのに。
ルノーは寝息を立てる頬に手を添え息を吸った。これだけは許してほしいと願って、募る罪悪感を振り払い、ほんの少し触れる。
ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていた。誰かが締めたのだろう。幸いノブの下のつまみによる簡単な鍵だったおかげで空いた。
覚束ない足取りで部屋を出ると、側を通りかかったメイドが皿のような目で、ちょこちょこと雌鶏のように駆け寄ってきた。
「まあまあまあ! ルノー様、どうなさったのですか!真っ赤でいらっしゃる。鼻血ですか?」
「ああ、少し。そうです……」
「大変。早く手当をしなくっちゃ」
慌てふためくマリアムに、それよりも、とルノーは口を挟み、部屋の方を示した。
「僕より、グザヴィエが。さっき倒れて仕舞ったんです。きっと厚さにやられてしまったんですよ」
我ながら、見え透いた嘘だ。それでもマリアムはすっかり信じ込んだようで、両手を頬に当て大げさな程までに驚く。
「なんですって、グザヴィエ坊ちゃんが! 坊ちゃん、坊ちゃん!」
血相を変えた彼女は、グザヴィエの名を叫び部屋へと駆け込んでいった。ルノーはそれを見届けると、足早に屋敷を出る。持ってきた鞄も血にまみれたシャツも気にせず、一刻も早くこの場所から逃れようと、ただひたすらに走った。
真昼間のパリの中、血まみれの男の姿は、勿論民衆の視線を誘う。やれ「あの男はどうしたのか」、やれ「肉屋ではなさそうだ」と飛び交う憶測の中、ルノーは一心不乱にその場を駆け抜ける。人目に出ることは、好きではないが、今はもう逃げよう、隠れようなんて思考には至らない。一刻でも早く、安心できる場所へ行きたい。焦る心がルノーの脚を動かした。
家に帰るか? いいや、母に心配をかけてしまう。
病院や学校で手当を受けるか? 駄目だ、怪我の理由を聞かれてしまう。嘘を吐くことなど、できない。
どうしよう、どうしよう。
思考の袋小路に陥った瞬間、背後から自分を呼ぶ声がした。
「あれ、ルノーじゃないか。どうしたの」
耳慣れた、ハリのある声。顔を上げると、お抱えらし気馬車から身を乗り出した友人が、手を振っていた。
「ベルナール……」
「暫くぶりだね、少し夏痩せし……て、なんだその服⁈真っ赤じゃないか」
素っ頓狂な声を上げるベルナールに、力一杯平然を装って見せた。
「……鼻血だよ。暑さにやられた」
とってつけたような言葉は、彼に届かない。特別形のいい眉は呆れ顔で笑った。
「鼻血ならもっと顔が湯後れているだろう。それに、なんで喉元に傷があるんだい?」
「前からある古傷だ。偶然、そんな風に見えただけの」
ルノー。
嘘でしょう? と見透かしたような眼差しに、口を噤む。都合の良い言い訳を探していると、おいで、と誘われる。
「立ち話もなんだ。折角だし家でお茶でもいかが」
「いいよ、悪いから」
「君も頑固だね。その格好で家に帰るとは言わせないよ」
ベルナールはぱちん、と指を鳴らすと煉瓦道を隆起させ、バランスを崩したルノーを引きずり込むように乗せる。不意打ちを食らったルノーは、座席にしりもちをつき、困惑した様子でベルナールを見やる。
「公共物に魔術を使うのは法律違反だよ」
「正当な理由がなければね」
「僕が座ったら、座席を汚してしまう」
「うち専用の馬車だから問題ない」
「でも」
返答を受け取らぬまま、馬車はルノーを連れてラファイエット家の屋敷に向かった。
まずはこびりついた血を流せ、とお降り込まれたシャワー室の鏡にて、初めて自分の姿を目の当たりにした。瞬間、背筋が凍る。
まるで亡霊のような、酷い見てくれだった。
顔面は蒼白、頬筋には血飛沫が付き、余所行きのシャツは真っ赤に染まっている。閉じたと思っていた首元の傷は、赤紫色にくっきりと主張している。鼻血を出したと言い訳するには、確かに無理がある。
心地よい湯を浴びながら、排水溝に吸い込まれていく赤い液体を眺める。幾ら湯を浴びても流れ落ちない恐怖に怯え、肩に爪を立てる。
「ルノー。これ置いておくから着替えて出ておいで」
ふと、カーテンの向こう側からベルナールが声をかけてきたと思えば、何かを置いて出て行く。見れば、着替えの入ったバスケットだった。
混濁した虚無を抱えたまま、ルノーはろくに髪を乾かさず、用意された着替えに袖を通した。乾燥したての、ほんのりと温かい陽の香りに僅かに呼吸が楽になる。
シャワー室を出ると、ベルナールが壁際で本を読んで待っていた。こちらに気がつくと、にっと口角を挙げ手を振る。
「やっぱりお前には大きかったか。すまないな、染み抜きが終わるまで、少しだけ待っていて」
ごめんな、とユーゴは笑った。体を冷やすといけないからと、客間に通されホットミルクを押しつけられる。
「少し傷を見せてくれる? 俺で良ければ手当をさせてくれコレでも簡単な手当は習得しているんだ」
首を晒す事ですら覚える恐怖を堪え、恐る恐る喉を差し出す。ベルナールの顔が歪んだ。
「酷い、よく絶えたね。さぞいたかったことだろう。使われたのは……何かの破片?」
おずおずと、ルノーは頷いた。
「僅かに魔術の気配を感じるけど、清潔にしていればじきによくなるんじゃないかな。軟膏だけ塗っておくね」
ベルナールは丁寧に処置を施す。彼に包帯を巻かれたその時、加害性のない指が体に触れたとき、心からの安堵を感じた。
「昔、グザヴィエやユーゴが転ぶ度、俺が世話をしていたんだ。彼等、ああ見えて昔は結構どんくさくってね。目を離すと直ぐに変なところで転んでいたんだ。本当さ、今じゃ考えられないおね」
包帯を結ぶと、小さな結び目を隠すように、襟を整えられる。
「よしできた。それにしても、街中で会うなんて珍しい。何処かへ行ってたのかい」
「それは、」
グザヴィエの家に。
喉から出かかってた言葉を飲み込むように、口を噤んだ。ああ、と途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「知り合いに届け物をしていたんだ。あの辺りに住んでいて、それで」
「君は本当に、嘘を吐くのが苦手なんだね」
驚きの余り、まじまじとユーゴの顔を覗き込む。悟りと諦めを混ぜ合わせたようなじわりと滲む表情に、罪悪感が込み上がった。
「冗談や嘘を言っているとき、人は決まって目をそらす。ルノー。僕にも言えないか」
「ち、違う……! でもこれは、僕個人の問題で、君は」
「グザヴィエが関わっていても?」
「!」
気管の奥が絞まり、ひゅう、と笛のような音が漏れる。
何故、何故彼は知って。
「ビスキュイの包みが服のポケットに入っていて、少しカマを掛けてみたんだ。意地悪してごめん」
「ベルナール、僕、」
「隠さなくていい。大方見当がついている」
ずっと黙っていた僕たちにも責任がある。
ユーゴは本棚から抜き取った歴史書を一冊、抜き取った。
「あいつの家が〈獣の呪い〉の血筋だってことは、知っているだろう」
「レイ家の呪いって、迷信じゃなかったの」
「いいや、本当だよ。俺たちも昔一度目にしたことがある。もう随分と昔のことなんだけどな」
そう言ってベルナールは、ホットミルクを飲み干した。
・・・
それは、まだ誰も十を迎えていない秋の日の事。一足先に魔術の安定したイヴが、ガルニエ邸の庭で物を浮かべて遊んでいた。ユーゴは浮かび上がるティーセットに目を輝かせ、最速するようにテーブルと叩く。
「すげえや、イヴ! 次は花壇、花壇でやってみてよ」
「無理よ、重すぎるわ。もう少し大きくなってから」
「いいだろう、なぁ!」
やいのやいのと魔術を語り合うイヴをユーゴをよそに、ベルナールとグザヴィエはそれぞれ気ままに庭での時間を楽しんでいる。キラキラとしたベルナールの目が細まった。
「いいなぁ、早く使える様になりたい。学者様が行っていたけど、僕は地の魔術が使える様になるんだって。植物かな、それとも宝石かな。ねえ、グザヴィエは何だったの」
「知らない」
「まだ調べていないんだ。じゃあ、今度家に来なよ。今ね、学者の先生が来ていてねー」
「だから、興味ないって」
多くの子どもは十三~四歳を過ぎてから器官が安定し、はじめて魔術が使える様になる。彼女のように一桁年齢で習得する者は稀だった。
グザヴィエの持つ本を覗き込むと、猫の挿し絵の入った本だった。
「あれ。グザヴィエの家、猫飼っていたっけ」
「う、五月蠅いなぁ」
「え、猫? 猫!」
先ほどまで魔術に夢中だったイヴとユーゴも、興味を示し始める。
「猫飼っているの?ねえ、ねえ!」
「飼ってない。庭に迷い込んだ奴がいるだけだ」
「飼っているようなものじゃない。見に行ってもいい?いいわよね」
嫌だと言っても引き下がらない二人に、グザヴィエは渋々と頷いた。
後日、こっそりとレイ家の裏庭に集まった四人は、手製の小さな箱の中に蹲る小麦色の猫を見つけた。愛らしい縹色の瞳をくるりと丸くし、小さく鳴く。その姿に、イヴは思わず歓声を上げた。
「可愛い!」
「しっ、声が大きい」
イヴを押しのけ、グザヴィエはポケットから取り出した魚の缶詰を子猫に与える。僅かに警戒心を見せたものの、小さな口で小魚を貪りだした。まだ幼いが故、食べ方がぎこちないがそれもまた可愛らしい。
「まだ小さいね。みて、私の手にすりすりしてくれてる」
「こないだの雨の日、うちに迷い込んできたんだ。帰る家が無さそうだったから預かっている。母親がいるなら、きっと迎えにくるから」
「でももし来なかったら?」
イヴが尋ねると、ぼそりと彼は呟いた。
「一緒に、一緒に……住んでみたい」
それから暫くは、レイ家の家に上がり込み、子猫を愛でる毎日が続いた。そして半年が過ぎた頃、グザヴィエに魔術の兆候が現れ始めた。
「嘘だろう!先を越された」
むくれるユーゴを、ベルナールが必死に宥めている。
「ほら、13歳までまだ何年もあるじゃないか。焦るのはまだ早いって。ねえ、グザヴィエ」
「本を読まず走り回って遊んでいるから、魔術使えないんじゃないか」
「こら、グザヴィエ」
クッキーをかじりながら悪びれる様子のないグザヴィエをベルナールは叱咤した。
「魔術が使えるようになったら次は魔書かぁ。楽しみね」
「まあ、そうだな」
この時はまだ、誰もあの惨劇を予期すらしていなかった。恐らくグザヴィエ以外は。
暫くして、グザヴィエの隊長負傷の知らせが届く。
「えぇ、グザヴィエが病気?」
素っ頓狂な声を上げるベルナールに、ラワイエット卿立ちは首を横に振る。
「魔術の発現が始まると、急な体の変化について行けず、体調を崩す者もいる。彼もまた、その影響を受けたのだろう」
一同は納得したが、それから1週間が経過しても、彼が顔を出すことはなかった。
「大丈夫かな、グザヴィエ。体調が悪くなるのって数日って聞いたよね。君はどうだったのイヴ」
「私?私は初日からピンピンしてたから参考にはならないと思うの」
4人の中で一番の健康体であるグザヴィエが、なかなか現れないことが、彼等にとって不安だった。イヴは提案する。
「そうだ、子猫ちゃんのことも気になるし、今度のぞきに行ってこない。おば様たちなら、きっと入れてくれるわ」
レイ家に向かった三人だが不思議なことに、グザヴィエは自室にいなかった。使用人のマリアムは丸い頬を押さえ、首を傾げる。
「おかしいですねぇ。先ほどまでベッドにおられたのに」
「きっと、猫ちゃんのところにいるんじゃない?行ってみましょうよ」
「猫ちゃん?」
不思議そうな表情のマリアムがみ込むグザヴィエの姿があった。
「やっぱりだ。おーい、グザヴィエ」
ベルナールが手を振ると、彼はゆっくりと振り返る。瞬間、三人の背筋は凍った。
口の周りに赤い何かが、べっとりとこびりついていた。
・・・
ベルナールは淡々と言った。予想だにしていなかった事実に、ルノーは言葉を失う。
「大人たちは口を揃えて『ちょっとした発作だ』と言った。だが、どうしても納得がいかなかった。大切にしていた猫を、殺すだなんて。あり得ないと思ったんだ。そして、俺たちは自分の手で調べ上げた」
溜息が零れる。
「彼自身にかけられた呪いだった。愛した者の肉体を引き裂き、食らう。そして魔書を作ろうとする。彼の意志など関係ない。グザヴィエの体に流れた血が、そうさせるんだ。グザヴィエのあれは事故だったんだ。偶然、引き金を引いたらしい」
語り終えたベルナールは、力なく笑う。
「引き金って」
「獣だ」
獣、即ち獣の病罹患者や魔書に触れると、彼の中に組み込まれた理性が弾け、計画的に、そして本能の赴くままそれを実行しようとする。ルノーは言葉を失った。
「とても信じられないだろうが。およそ、下手なフィクションの方が現実味があるだろう?斬何ながら事実なんだ」
彼が魔書について嫌悪の言葉を述べる理由、そして実家の道具を全てルノーに譲ると言った理由が、僅かな柄に見えてきた気がした。
「どういった方法で呪いが発言したのかは、定かではない。だが恐らく、彼は君を……」
殺そうとした。
「今、グザヴィエは家にいるんだよね。これから話し合いに行こう。彼自身もきっと、混乱しているはずだから、」
「彼の記憶は、残ってない」
残ってない。その言葉を受けた。
あの時、反動で駆けてしまった魔術について、ルノーは告白した。理魔術の中でも、特に使用者の少ないと言われるそれは、危険度が高い魔術として有名だ。下手をすれば人格やそのほか脳の働きに影響が出ることもある。故に、邪険に扱われる事も少なくない。
「隠していたつもりはないんだ。ただ、自分から言うのが怖くて。ただでさえ、僕は平民なんだ。これ以上、」
「ああ、本当。そんな理由で君をのけ者にする分けないだろう。まったく」
ありがとう。
ルノーがそう言うと、ベルナールは親指をぴんと立てて言った。
「だが、暫くは彼と距離を置いた方が良いだろう。彼のためでもあり、君のためだ。僕をたよってくれ。最近ユーゴは家にいないことが多いし、イヴは……どうせ面倒ごとになる」
「そうだね。彼女、お節介だから」
「間違いない。いつだってイヴはそうなんだ。思えば君二人で話す時間は滅多に無かったね。いつもグザヴィエがくっついてきていたから。そうだ。この際彼がいないところでしかできない話をしよう。例えば、小さい頃、煉瓦道に足を火掛けた時の話とか!」
日が暮れるまでユーゴは語った。
「ああ、すまない。すっかり話し込んでしまったね」
「ううん。とても楽しかった」
「光栄だ。折角だし、家まで送っていこうか」
すっかり乾いたシャツを持たされた。微かな石鹸の香りが心地いい。
「ありがとう、ベルナール」
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