Ep3/或る料理人の日常【カルペ・デュエム・トラジコメディア】
コックの朝は早い。というが、トラジコメディアの料理人・イヴァンが目を覚ますのは、太陽が丁度真上に昇った時間だ。
エカムのサウスサイド・ストリートは、比較的治安の良い地区だ。恐らく、形ばかりの警察署が置かれている影響だろう。もっとも、彼等の殆どは潜り酒場から押収した酒を呷るばかりで、まともに職務を果たそうとする者は片手で数える程だろう。だが、ただそこに鎮座するだけである程度効果が認められるらしく、比較的犯罪件数は少ない。故に庁舎を取り囲むようにして、いくらかの住居外が立ち並んでいた。
その中のアパートメントの一角に、彼らの部屋がある。トラジコメディアの男たち、オレル、バルト、イヴァンの三人は、紆余曲折を経て共同生活を営んでいる。初めは店長であるオレルが一人暮らしを謳歌していたが、途中流れ者であるイヴァンやバルトが転がり込み、いつの間にかルームシェアが始まったのだ。
最初こそ嫌な顔で小言を言っていたオレルだったが、腕の立つイヴァンの朝食や、時折奏でられるバルトのバンドネオンの音と共に過ごせば、一週間足らずで文句は出なくなった。
最も、懸念していたパーソナルゾーンの確保や自由の問題は、各個人に与えられた私室のお陰で解消されてる。殆どの時間を職場と私室で過ごす彼らは、理想的な共同生活を送れているというわけだ。
自由に生活していれば、寝起きの時間帯も自ずとずれてくれる。結果、この家で最も早起きなのはイヴァンだった。彼は目覚めると、直ぐに最低限の身支度を済ませキッチンへ向かい、遅すぎるブランチの支度を始めるのだ。
この話をすると、皆一様に彼がモーニングルーチンを身につけていることに驚く。壊滅的な健忘症をもつイヴァンでも、毎日同じ動作を繰り返せば流石に覚えるのか。または、夢遊病のように無意識に行動しているのか。真実は定かではない。
安い油がフライパンの上で弾け、香ばしい匂いが立ちこめる頃、オレルがダイニングへとやってくる。だらしなく伸ばした長髪を適当に纏め、眠たげに微笑む。
「おはよう。言い朝だな、イヴァン」
「もう12時を回っているけど……おはようございます」
「今日の朝飯はなんだ」
オレルはフライパンを覗き込む。平たい鉄皿の中に食パンが2枚、重ねられている。2つの隙間からは溶けたチーズやベーコンの肉汁がはみ出し、熱で炙られては食欲そそる香りを漂わせていた。
「ヒュウ、グリルドチーズか。最高だね」
「そんな名前なんですか、これ。バルトさんは?」
「帰ってないよ。どうせ今日も適当な相手のところで寝ているんだろう」
いつしかお決まりとなってしまった軽口とともに、オレルはコーヒーミルに手をかけた。
挽きたての珈琲と、あつあつのグリルドチーズ。幸せの定義と言われてピンとくるものがないイヴァンだが、この食事という行為は幸福に該当するのではないかと常々感じている。
「イヴァン。また何か考えていたのか」
「……ん、ああ。考えていた、気がする。もう忘れましたけど」
だろうな、と笑うオレル。この壊滅的な健忘症を笑って許してくれるのは彼や肉屋、このエカムに住む住人だけだろう。
自分の出自はもう忘れた。ただ、その顔つきからロシア周辺の民族の血を引いていることは解っていた。親がどんな職業で家族構成がどうでなど、昔のことはすっぽりと頭から抜け落ちている。そもそも、自分が持つ記憶の中で最も古いのは、十二、三歳の時、小さなログハウスでプルデンシオとスープを飲む光景だった。
頭に靄がかったような、不明瞭な感覚の中、欠けた皿に浮かぶ豆を突いていた時のこと。
「貴方は」
おぼろげながらも、そう尋ねたことを覚えている。すると彼は、にやりと笑って言うのだ。
「おや、自己紹介はとうに済ませたはずなんだけどね。まあいいや、僕はプルデンシオ。プルデンシオ・パレホ。雪道に倒れていた君を偶然拾った、幸福な優男だ」
優男。それは少なくとも自称するには適さない言葉のはずだ。首を傾げていると、プルデンシオはケラケラと笑った。
「小鳥のような反応だね。ところで君、自分の名前言えるかい?」
「名前……なまえ?」
思い出そうと、思考を巡らせる。だが、所詮水中で泡を掴む行為に過ぎなかった。
「あった、けど。分からない。思い出せない……」
「そうか……やっぱりね。君は健忘症を患って居るようだ」
健忘症? と尋ねると、プルデンシオはゆっくりと説明を始める。
「恐らく、トラウマを封じ込めるための自己防衛本によるものだろう。あのような出来事に巻き込まれれば無理はないさ」
「トラウマって、なんですか」
スープを掬う、プルデンシオの手が止まる。
「あのような出来事って、何ですか。僕は何かしたんですか」
「……君は何も悪くない。悪いのは、一部の大人と世界だよ。いつだって、しわ寄せを食らうのは善良な人間ばかりで……いいや、すまない。今のは忘れて欲しい。ところで、名前がないと呼ぶのに不便だ。君のことをイヴァンと呼ぼうと思うのだが、いいかな?」
イヴァン。どこか懐かしさのある響きを反復する。
「この辺りではよくある名前だ。困ったときには名乗るといいよ」
「はい。忘れ、なければ」
すると、プルデンシオは嬉しそうに首を傾げながら、一つのペンダントを取り出した。あり合わせのチェーンで作ったそれは、宝飾品として価値があるとは思えない。ただ、中心にぶら下がる桃色がかったイエローの宝石は、洋灯の明かりを眩しく照り返す。
「君のものだ。決してなくしてはいけないよ。いつかきっと、必要になるだろうからね」
そう言われてからずっと、このペンダントを身につけている。なぜだか人に見せてはいけないような気がしてずっとシャツの下にしまい込んでいるのだが。
「そうだ、イヴァン。店の胡椒が切れているんだった。行き途中で買ってきてくれるか」
珈琲を飲みながら、オレルが言った。
「自分で買えばいいじゃないですか」
「この後直ぐ用事があるんだよ。開店準備の方も頼んだぜ」
そう言い残すと、オレルはさっさと食事を平らげダイニングを後にして仕舞った。一人ぽつんと残されたイヴァンは仕方なく、食事を続ける。静かなダイニングでさくさくと咀嚼されるトーストの音だけがこだまする。
・・・
「売店で胡椒、売店で胡椒、売店で……」
夕暮れのエカムを一人、歩いて居た。春先のひんやりとした風が心地良い。出身の影響だろうか。暑い夏の気候より、比較的ひんやりとした気候を好む傾向があるらしい。
「……ん?」
水面が揺れる音がした。ここは、エカムの南方と北方を分断するモルーク川の真上の橋。連日不法投棄が起きるこの場所では水音など日常茶飯事だ。だが、イヴァンは不思議と興味を覚え、引っ張られるように水面をのぞき込みに行く。
溝色の水面から漂う、強い汚物の臭い。目にしみる激臭に一瞬たじろぐが、潤む視界の最中、川中にある小さな小島に、数人の人影を見つけた。黒いスーツを纏い、手には銃。
「おい、テメェ。何見てんだ!」
鋭い怒号が響く。彼等のうち一人が、イヴァンに呼びかけているようだ。よく見れば、彼らは皆、目立つ緑のネクタイを巻いている。恐らく、ここらで有名なギャングの構成員だろう。ノース・サイドには彼らのアジトがあると、以前聞いた気がしなくもない。
「大丈夫だ兄弟。あの男はレテの水滴を飲んだ男だ。どうせ直ぐ忘れる」
「あ、ああ……」
彼等の直ぐ側を、丸い背が流れていくのが見えた。ああ、また一人この町の住民が死んだんだな。一人納得すると、イヴァンは再び歩き始めた。
「売店で買い物、売店で買い物、売店で……あれ。何を買うんだっけか」
まあ、いいや。きっと急ぎの用じゃない。
料理用具の入った鞄を揺らす。鼻をくすぐる腐臭に、僅か煮眉をひそめながらイヴァンは今日も店に向かう。
例え記憶が脳の器からこぼれ落ちても、なぜだか、この街にいたいという心だけは変わらなかった。
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