第四話/獅子の心臓③【ペンドラゴンの騎士】
三章/手を取り、笑い
ウェールズの港町、テンビーは愛らしい小さな港町である。
ロンドンからそう遠くない場所にあるこの町は、中世から貿易拠点として発展した経緯をもつ。また、パステルカラーの町並みもあって、今でも観光都市であり漁村としてその名を広めている。
この町にもペンドラゴン騎士団の分隊、テンビー=ペンドラゴン騎士団が存在していた。穏やかな町の雰囲気に違わず、比較的温厚な騎士が多く、水産業を中心としていることから、護衛や金銭管理を得意とする者もいた。彼らは巡回を兼ねて町人の手伝いをしたり漁に参加したりと、密接な関係を気づいている。住民たちは彼らを平和を守る公務員であり、良き隣人であるとも認識していた。
また、町民たちの生業故、町の朝は早い。日の出と鶏の声とともに始まる一日は、つい先日戦争が始まったことを予測すらさせないだろう。
「な、何! アサドがまだ帰っていない⁉」
朝一番、そう声を張り上げたのは、眼鏡に細身の、いかにも神経質そうな顔立ちの騎士だった。彼の名はダニエル・ギーズ。テンビー=ペンドラゴン騎士団に所属する医術騎士(カデュケウス)の一人である。
頭を抱える彼に報告した部下らしき人物は、申し訳なさそうに頷く。
「すみません。近辺を探しましたが足取りはつかめず、このご時世夜勤の騎士を出動させる訳にも行かず……」
「連絡や確認なしに戻ってきたのはいただけないが……もとは俺があいつの方向音痴を侮っていたのが原因だ。ああ、まったく。手間がかかる男だな、彼は!」
整えたばかりの頭をかきむしり、うろうろと資料室を歩き回る。今月何度目かの狼狽っぷりに、部下の騎士もまた、ため息をついた。
ダニエル・ギースとアサドは、騎士学校時代からの友人だった。かれこれもう八年来の付き合いになる。彼の性格や難点は全て熟知しているつもりだったのに。何故、こうなってしまったのかと頭を抱える。
昨晩の雨といい、神は数奇な運命を彼に与えることを楽しんでいるのでは無かろうか。彼が、アサドという男であるから。
「ダニエル・ギース卿! 彼が、アサド卿が帰ってきました」
突如執務室に飛び込んできた騎士。彼女の持ってきた情報に、思わずダニエルは飛び跳ねる。
「本当か!」
「はい。ですが、見慣れない子どもを……卿⁈」
小脇に抱えていた書類を持ったまま、ダニエルは資料室を飛び出した。
「お前ーっ! アサドーっ! 一体今までどこに……はっ、子ども⁉」
帰還したアサドの前に飛び出したしたダニエルは、一気に顔を引きつりさせた。彼の脚に隠れるように、小さな人影がこちらを伺っているのだ。しかも顔つきや服装からしてブリテン島出身者ではないことが分かる。アサドのように大陸から移り住む者もいるにはいるが、彼の場合、どこか様子が違う。
まさか……。
ダニエルの脳裏に、嫌な想像が浮かぶ。
「ちょっと。可哀想じゃないか。もう少し優しい顔してあげろよ。なー?」
「お前、その子ども。攫ってきたのか……?」
恐る恐る尋ねると、アサドは人聞きの悪い、とわざとらしく顔をしかめた。そして、森の中で迷ったこと、行き着いた館で正体不明の賊の手から彼を連れて行ったことを丁寧に伝えた。
「まあ、捕まえた奴らは逃がしてしまったんだけどね……制御麻酔が何故か効かなくて。なんでだろ」
聞き終えたダニエルは、納得と安心の混じったため息を吐く。
「まったく、お前ときたら……アリソン卿、本部に連絡を。獣病罹患者法の違反者が出たと伝えろ。場所は……とりあえず近郊の森と伝えて出動準備だけ頼んでおくように」
「了解しました!」
近くで佇んでいた青年騎士が敬礼し、パタパタと立ち去る。
英国では昔から、獣の病罹患者の売買を禁止している。これは、かつてこのブリテンの地を平定したと言われるアルトリウス王の臣下の中にも獣の病の騎士があり、彼等に敬意を払うため。そして、違法魔書の製造を防止する役割があった。騎士団のお膝元であるロンドンではしっかり機能しているらしいが、地方の街だと未だ差別が根付いていたり、違法取引が行われていたりもする。
加えて、魔書一冊に大きな金が動くことから、罹患者の売買は後が経たない。この少年を監禁していた館の主も、大金に目が眩んだのだろうとダニエルは考えた。
「そうか。そういう経緯ならば仕方が無い。だがアサド、彼の救出劇とお前がとんでもない迷子をしでかしたことは……」
ダニエルは、チラリと少年を見やった。どうやら彼はまだ自分を怖がっているようで、目があった瞬間、アサドの後ろに隠れてしまう。流石にあからさまに警戒されると、例え相手が子どもであっても傷つくのだろう。ダニエルは、この世の終わりのような表情を浮かべていた。
「怖い顔しないの。君だって知らない言語でまくし立てられたら驚くだろう。小さい子なら、尚更だ」
「睨んだ訳じゃない! ただ、その、体調が気になっただけだ。傷だらけだし、服も汚れている。あと、名前だって分からない」
ダニエルがそう言うと、名前かぁ、とアサドは悩ましげに首を傾げた。聞けば、この少年は自分の名を知らないらしい。魔書の素体を育てるための監禁生活を送ってきたのだ、名を与えられなくとも無理はない。
「だが、名前がないと何かと不便だろう。つけてやったらどうだ」
アサドは少し考えた後、短く言った。
「リュザール。リュザールにしよう」
「へえ、確かお前のところの言葉で風……か、悪くないじゃないか。雰囲気によく似合っている」
リュザール、そう名付けられた少年はアサドの瞳をじっと見つめる。穏やかな視線の奥に見える日だまりのような優しい光……のような何か。その時自分に降り注ぐそれの正体を知ることの鳴るのは、あと少し先だった。
それからリュザールは、テンビー=ペンドラゴン騎士団の館で暮らす事となった。分隊長であるフェアフィールドは突如やってきたリュザールを快く受け入れ、彼に対しいくらかの教育を施すことを命じた。
「私は妻との間に子どもが居ないから。まるで息子ができたかのように嬉しいよ」
同僚である騎士達も、異国の子どもに初めのうちこそ戸惑っていたが、リュザールの持つ天性の愛嬌により、直ぐに軽快を緩めた。いつの間にか彼は、騎士団の弟分のような存在になっていた。
中でも、教育係となったダニエルの溺愛ぶりは見事なもので、ことあるごとにアサドにリュザールの成長を報告してきた。
「なあ、アサド。リュザールは天才だ! もう英語とラテン語を理解した。それに数学だって。来月にはお前に追いつくぞ」
そう嬉しげに報告する彼の様子は、まるで小さな子どもの成長を喜ぶ父兄そのものだ。
だがそんな一方で、リュザールはダニエルを怖がっていた。
初対面での出来事も加えて、淡々とした彼の語り口や少々強気とも言える語彙が幼い少年を怖がらせている。ダニエル本人もその自覚はあるようで、自分の口調をいかに改善すべきかと何度もアサドに相談を持ちかけていた。
「何故。他の騎士には懐いているのに、何故俺は駄目なんだ。やっぱり顔か。顔が怖いのか。眼鏡はやっぱり外した方がいいのか」
「視力弱いだろう君。外したら何にも見えなくなるよ」
「じゃあどうすればいいんだよ」
悲壮を嘆くダニエルに対し、うぅんとアサドは脳天気に首をかしげる。
「笑ってみれば」
アサドが言うと、ダニエルは無理矢理降格を上げてみせる。その様子が余りにもぎこちなく、アサドは思わず吹き出した。
「わ、笑うなアサド! 俺は真剣なんだ」
「ごめんごめん。そんなに言うなら、今度の休暇、三人で買い物にでも出かけようか。ほら、親睦会みたいな感じにさ」
「親睦会」
曰く、リュザールがダニエルを怖がる理由は初対面での印象もあるだろうか、勉強を教える際の姿勢も影響しているかもしれないということ。そこで普段の緊張の助けた姿を披露するのがいいのではないか、とのこと。
「いい、いい! 素晴らしい案じゃないかアサド!」
「へへへ、どうも」
ヘラヘラと手を振るアサドだったが、彼はふと考えていた。この男、リュザールが思考すら詠む獣〈アガルクトニ〉であることを忘れてはいないか。恐らく彼の思考の大半はリュザールに読み取られてる。そらがすっかり頭から抜けて居るのではないのろうか。
いや、別に構わないか。彼自身が楽しそうにしているところを見るのは一等楽しい。
そしてアサド立ちは早速、次の週末に三人でテンビーの商店街へと向かう予定を立てることにした。
・・・
鮮やかな風景、爽やかな潮の声、そして活気ある人々の熱気。季節は秋口でありながらも、その輝きは真夏のもののようであった。
リュゼールは、初めて見る市場の様子に目を輝かせた。なんせ、館に来てから一度も外に出る機会がなかったのだ。物心ついた時から鎖に繋がれていた彼にとっては、極彩色の絵の具箱のような小さな街はあまりに情報が多すぎる。
湧き上がる好奇心をくすぐられ、次々と店や景色を指さし仕切りに尋ねる。
「アサドさん、あれは」
「砂浜だよ。沢山貝殻が落ちていて、たまにクラゲがやってくる。クラゲって知っているか。透明で、ゼリーのようにブニブニしているおかしな魚さ」
「じゃああれ。あの店は」
「あれはパイの店だね。あの魚が頭から突っ込んでいるのだろう。アレは『スター・ゲイジーパイ』と言ってね。海を挟んだ南側にある街の伝統料理だ。ここらのものじゃないけど……ほら、ダニエルの顔を見てご覧」
リュゼールが恐る恐るダニエルの顔を伺うと、普段から気難しい印象を与える顔つきが、いつも以上に歪んでいた。心なしか顔色も悪い。
「ダニエル、さん」
「ああ、いや。何でも無い。リュザールは、あれ、食べたいか……?」
恐る恐る尋ねる彼の顔つきは、まるであの妙ちきりんなパイを恐れているかのようだった。リュザールは特別魚に苦手意識もなかったが、あれを口に入れる勇気はまだない。ゆっくりと首を振ると、ダニエルは安堵の表情を浮かべた。
「あっはははは! まだスターゲイジーパイが苦手なのかダニエル。チキン以外にもちゃんと魚も食べなきゃ駄目だぞ?」
「う、五月蠅い! 魚は別に嫌いじゃない……ただ、アレだけが駄目なんだ……パイ生地に魚のはらわたの苦みがにじみ出る感触が。おい、笑うなアサド」
震えながら笑いを堪えるアサドを、肘が小突いた。
「俺は白身魚の方が好きだ。ほら、ちょうど向こうにフィッシュ&チップスの店がある。あっちの方が美味しそうに見えるだろう。実際美味しい。あのパイなんかよりな」
「失礼じゃないかいダニエル。そこまでいうのは可哀想だ」
「う、それは……まあ、その、あのチップスを食べてから考えよう」
ダニエルは逃げるように別の露店へと向かう。その後ろを、二人は子ガモのようについていった。人数分のフィッシュ&チップスを購入したダニエルは、路地沿いのベンチに座り、リュザールへと手渡した。
「ほら、食べるといい」
「は、はい……」
恐る恐るチップスを受け取るリュザール。その様子から溢れるぎこちなさにダニエルは「しまった」と過ちを自覚する。アサドの方を見ると「もう少し喋って」と手話を向けてくる。
「あー……買い食いは初めてだったね。揚げたてだと言っていたから、火傷にはきをつけなさい」
「はい……」
「急がなくていい。ゆっくり食べることだ」
できるだけ優しく、それでいて柔らかく。ダニエルは一音一音に気を付けながら話しかけた。どうやら功を奏したようで、リュザールの表情から徐々に緊張が解けていく。
ほっと胸をなで下ろしたダニエルは、無意識に声を弾ませ街の地図を広げた。
「夕暮れまで時間はある。ここらなら、どこにでも行けるはずだ。本屋に服屋、玩具屋もある。今日は特別な休日だからな、君の行きたい所に行こう」
まくし立てる様な言葉に唖然とするリュザールだが、僅かに考えた後、地図を小さく突くのだった。
・・・
一行が休日を満喫しきった頃には、丁度空は茜色の帳が落ちかけていた。初めてのテンビーの街にくたびれたリュザールは、ダニエルたちと共に小さなビーチの砂浜で夕暮れを眺めていた。
「いやいや、いい一日だった」
スナックを頬張りながら、アサドは気持ちよさそうに伸びをする。
「たまには、休暇をとってゆっくりするのもいいね」
「ああ、戦争が始まったとは思えない」
二人の言葉に、リュザールは「戦争?」と呟いた。アサドたちは顔を見合わせると「まだ伝えていなかったかもね」と前置きして言った。
「そうだ。今、大陸の方で大きな戦いが起こっているんだ。テンビーからも、何人もの騎士達が戦場に向かっている。覚えているかい、あの艶やかな尻尾の彼を。彼奴も戦場に行ったんだ……」
リュザールは頷いた。アサドと同じ獣生病の罹患者だった。確か狼の要素を持ち合わせており、月夜に一人で屋根の上に登ってはダニエルに怒られていた彼。
「でも大丈夫、数ヶ月も経てばきっと直ぐに終わるさ。信じて待っていよう」
「アサド、」
そろそろ帰ろうか、とアサドは立ち上がり伸びをした。
「疲れただろう。馬車を呼ぶから、そこでまってて」
「僕、大丈夫です。歩けます」
「君のことじゃなくて、ダニーのこと」
アサドは悪戯っぽくダニエルと突き、ニヤリと笑った。
「彼、体力無いからさ。今は隠しているように見えるけど、実は相当疲れて居んだぜ」
「かっ、揶揄うなアサド!」
語気を強くして言うも、裏返った声では覇気が無い。アサドは「じゃあ行ってくる」と機嫌良さそうに立ち去った。
ダニエルは一つ、溜息を吐く。全く、気ままな性格にも困ったものだと。だが直ぐに、自分の置かれている状態に恐ろしい見当がついた。
視界を下げると、リュザールが木の実の様な瞳を向けていた。ダニエルの視線に気づくと、慌てて顔を逸らす。
「……おっと、」
まさかこれ、二人きりじゃないか?
アサドはこの状況を見越して、馬車を呼びに行ったというのか。
気を利かせているのか、空気が読めないのか、本当に分からない。
ダニエルは恐る恐るリュザールの方を見つめると、いつの間にか少し離れた場所で一人、貝殻を拾い集めている。
小さな後ろ姿を見て確信する。チャンスだ。彼と仲良くなるまたとないチャンスだ。
意を決したダニエルは、胃を決し彼の元へと歩み寄る。できるだけ笑顔がぎこちなくならないように。そして、できるだけフレンドリーに。
「リュ、リュザール」
小さな肩がぴょこりと跳ねた。
「は、はい」
まだよそよそしさを感じる口調に、深い感情の溝を感じる。対岸にいる彼との間には、深い深い谷が見える。負けるな、自身を持て。そう自分に言い聞かせるとリュザールの隣にしゃがみ込んだ。打ち寄せる波の音が間近に迫り、空間から切り離されたような、不思議な感覚を覚える。
「君は、海の声って知っているか」
「海の声?」
波の音では無くて? そう不思議そうに呟く彼に、ダニエルは「ああ」と短く言った。そして、少し大きな巻き貝を手に取り、首を傾げるリュザールに握らせた。
「空洞の部分を耳に当てるといい。聞こえるから」
ダニエルは自分の耳に、もう一つの巻き貝を当てる。リュザールも見よう見まねで同じように耳を澄ませた。すると、ぼんやりとしていた瞳がぱっと明るくなる。
「聞こえる、聞こえます。まるで波のような」
「これは、一種のノイズ、雑音だ。この巻き貝の中に空気が存在することによって、必然的に音が生まれる。それを『海の声』という先入観を得ることによって、波の音が聞こえるんだ。不思議な話だろう」
そこまで言ったときはっと、我に返る。小さな咳払いと共に、小さく付け加えた。
「と、いう原理だが。海の声と考えるのも、また詩的で悪くないんじゃないか」
「ええと、僕は好きです」
いつにも増して明るい声に、ダニエルは無意識に振り向いた。
「海の声。素敵な、例えですね……綺麗だ」
黄金比を描く少年の緩んだ横顔に、弛みそうな頬を押さえながらダニエルは海の向こうを眺める。遠い、大陸の先。友の往く戦地のある方角を見つめ。
「君がそう思ってくれて嬉しいよ。そうだ、アサドにも一つ、持って帰ろう。何かと収集癖があるからね、彼は。君からの贈り物としれば、きっと手を上げて喜ぶさ」
「うん」
リュザールはうなづくと、ダニエルとともにとっておきの巻貝を探しに砂浜を彷徨い始めた。
「ん」
これから巻貝を探そうというのに、左手を差し出すリュザールに、首を傾げた。
「どうしたんだ、お腹でも減って」
「手」
「て、」
「アサドが『二人で一緒にいるときは危ないから手を繋ぎなさい』って行く前に」
じっとこちらを見つめてくる丸い瞳に、数秒間凍りついてしまう。
いいや、よく考えろ。当たり前だ。ともに行動する幼い子供と大人が手を繋ぐなど、どこにでもある光景。そう、当たり前。当たり前なのだ。
だが、なぜかこんなにも満たされる。彼に受け入れてもらえた、錯覚でもそう思えることが、嬉しかった。
「そうだな。彼も気が回るじゃないか。ふふ、さて、探すとするか」
「はいっ」
影の伸びる砂浜で、二人はゆらりと歩いていく。周囲を見渡しながら、できるだけアサドが目につき易いように。
砂浜を踏み締める音と漣の音が混じり、穏やかな家具の音が響き渡る。
「ダニエルさん」
そう言ってしゃがんだリュザールの手には一際大きな巻き貝があった。
「これにします」
「立派なものを見つけたね。素敵だ。じゃあ、海で軽く砂を濯いで、」
そう言った瞬間だった。遠くから、荒々しい叫びと砂浜を駆ける音が聞こえる。
「いたぞ、あの長髪のガキだ!」
見ると、数人の人影がこちらへと向かって走ってきている。皆、目深にフードを被りはっきりとした表情が見えない。
フードの集団、リュザールを狙う……?
ダニエルは一気に思考を巡らせた。もしかして、もしかしなくても彼らは。
「ひ、」
「逃げるぞリュザール!」
小さな手を強く引こうとした、その瞬間。背面に強い痛みを受けた。銃弾か? いや、違う。これ時は銃弾のような速さで撃ち込まれた何かだった。呼吸が止まる衝撃と、全身を駆け巡るような体の痺れ。呆気なくも、ダニエルの体は砂浜に崩れ落ちた。
「ダニエルさん!」
リュザールの手が肩をゆするのを感じるが、体中に広がる痛みと痺れのせいで、立つことができない。背から脇腹にかけ貫通したそれは、小さいながらもダニエルの体に風穴を開けた。
塞がれ、塞がれ。
止血を試み流ため魔術を発動しても、手は光を帯びることはない。何らかの要因でで魔術行使を抑制されているらしい。恐らく、先ほどの銃弾は魔力式銃の類いだろう。
自分は何もできない。そんな無力感が、沁みるように全身に行き渡る。こんな時自分が彼に、リュザールにできることは一つだけ。悔しいながらもただ一つ。
「……逃げろ」
「ダニエルさん……」
「逃げるんだ、リュザール。アサドの方に!」
数言絞り出すだけでも、精一杯だった。
背後からざくざくと、砂浜を進む音がした。あのローブの集団が近づいてくるのだと理解した。
「なんだ、この騎士弱えな。本当に騎士か」
一人の男が言う。
「拍子抜けしたけど、いいんじゃない。楽に越したことはないわ」
「が、ぁ……ッ」
鋭い蹴りが、ダニエルの脇腹を直撃する。傷を抉るように打つ爪先は、弱りつつある彼の体にさらなる傷を与え、血を滲ませる。
「さっさとガキ捕まえてずらかるぞ。ったく、リーダーはなんでコイツにご執心なんだ。似たようなやつならいくらでもいるってのに」
「そりゃあ、特別顔がいいからに決まってるだろうよ。とんだ好色だな」
瞬間、づくりとか横たわる体全体に重力がかかった。
怒り、屈辱、怒り。
言いようもない負の感情が、遠くなるダニエルの意識を呼び戻した。そして、彼の体に執拗な鞭を打つのだ。
「嫌だ……嫌だ!」
リュザールは、逃げられていない。どうやら、腰を抜かしたようで、震える方が砂の紛れる視界から見える。ローブを羽織る人々が手を伸ばしたその瞬間、空気が歪んだ。酒を浴びたような酩酊感と神経をねじ曲げる轟音が同時に襲いかかる。火事場の馬鹿力といううべきか。身体中の痛みが嘘のように消え去り、あれだけいうことを聞かなかった魔術が、すんなりと周囲を蹂躙した。
「なんだ、何だ⁉」
ローブの集団は怯み同等する様子を見せる。その隙にダニエルは立ち上がる。
「行、くぞ、リュザール」
「ダニエルさん、お腹」
涙目を浮かべる少年の目線は、赤色を滲ませるダニエルの脇腹を注視していた。彼の不安を和らげるようにゆるく時微笑むと、震える小さな手を引き、ダニエルは体に鞭打って走り出した。近くの路上に向かえば、きっとアサドが迎えに来てくれるはず。
だが、走っても走っても、彼と再会することはない。それどころか、そこかしこから怪しい人間が道を塞いでくる。そせいで、なかなかアサドと遭遇することができない。街にわざと騒ぎを起こさせるように走っている。どうかアサド、そしてテンビー騎士団にこの状況が伝わるように願い、ダニエルはひたすらに走った。
「ダニエルさん、」
心配そうな顔で服を握るリュザール。限界を越した疲労をおぶる彼はもう、涙潤む少年の表情すら認識できなくなっていた。
「大丈夫だ、大丈夫。俺が、守るから」
だが、その意志も束の間、脹脛に激痛を受ける。
「痛、ぁあっ!」
「ダニエルさん!」
「畜生。なんださっきの。驚かしやがって」
逆光に照らされた人影が数人、こちらに向かって歩いてくる。リュザールたちを狙っていたローブの集団だ。先ほどより人数を増やし、今度は本気で追い詰めようとにじり寄ってくる。
その中の一人がリュザールの腕を掴み、醜く歪む口元を覗かせた。
「はぁ、随分手間をかけさせやがって」
「いやだ!」
「リュザール……!」
ここは人通りの少ない路地。声を出そうにも誰もいない。そもそもダニエルの声は、誰かに届くほど、鮮明なものではなかった。ちと秘湯の混じった泡を絞り出すような声。
「ダニエル……うぅっ!」
短く響く雷鳴に、咄嗟に顔を上げた。そこにはぐったりとした様子でローブの男に抱えられるリュザールの姿があった。
獣の病の罹患者は、強力な能力を持つ代わりに魔力を持たない。もちろん、それに対する防御策もだ。故に、同じ攻撃であっても通常の数倍のダメージを食らうことだってある。
「貴様……」
怒りを孕んだダニエルの声は、誰にも届かない。
「おい小僧。今度叫んだらこの男の命は無いぞ。わかったな?」
ぐったりとし声も出せないリュザールに言い聞かせる。もう意識はないようだった。なのに、こう言い聞かせている。この男の嗜好だ。リュザールを痛めつけ、快感を得ている。
先ほどと同じ。いや、それを超えるような怒りのうすがダニエルを支配する。
「はぁ、くたびれた。さっさと帰るぞ。これでリーダーはもう何も言わねぇだろう」
「どうなるんだろうな、こいつ」
「明日の朝にはわかるさ」
夕日が赤く、染まった。
立ち去るローブの集団の脚が止まる。
「ん、なんだ」
「おい。誰か引っ張っているのか」
「んなわけない。どこかに引っかかってるだけだろ……」
集団が振り返ると、先ほどまで地に伏せっていたダニエルが立っていた。だらりと手を下げた前傾姿勢で、こちらを見据えているようだった。逆光で、顔は見えない。
「なんだあいつ、まだ動けたのか。随分しぶといな」
「ははぁ、あいつも獣の類か? いや、魔術使ってたしな」
そう言ったとき、一人が声を上擦らせた。ダニエルの影が、ローブの集団の影の脚を掴んでいる。そのまま宙吊りになり数ヤード先に放り投げられたのだ。集団は顔面を青くし、ポツリと呟く。
「お、お前」
「リュザールを返せ」
瞳が、怒りに燃えた。
「リュザールを返せ!」
ダニエルは叫ぶと右手の指を鳴らした。すると、彼の影がじくじくと煉瓦道を這う。まるでナプキンに一滴、インクをこぼしたかのように。おぞましく、それでいて美しいアールヌーヴォーのそれは、花の蔓を思わせた。
「何よこいつ!」
ローブの女が銃を構えるも、その引き金は動かない。銃口が、影にしっかりと押さえ込まれているのだ。
「俺たちの弟だ。返せ!」
もう一度指が鳴ると影から一斉に蔓が伸びる。影の蔓は縦横無尽に路地をうねり周り、盗人からリュザールを引き剥がした。小さな体は即席の籠に包まれ、ゆっくりとダニエルの元に運ばれていく。対して悪党共は宙づりにされ、四肢の身動きを封じられた。
「くそ、放しやがれ!」
「ガキはもう、そっち行った。返した、返したから!」
それでも尚、拘束は解かれない。それどころか、四肢を引きちぎらんと、影は動き始める。ぎらぎらと。
「嫌だ。いやだぁぁぁ!」
ローブの手段は、腹の底から。せり上がる恐怖に負け、意識を失う。
解放されたリュザールはダニエルの元へと駈け寄る。彼は既に半分意識を失っている。うわごとのように「返せ、返せ」と呟いていた。
「もう大丈夫。大丈夫だよ」
「リュザール?」
理性を取り戻した瞳は、焦りを帯びた。もしかしたら怖がらせてしまったかも知れない。また、嫌われてしまうかも知れない。
「ご、ごめん。怖かっただろう」
「ううん。ダニエルがいたから怖くなかった」
小さな腕が、震える脚を抱きしめる。暖かな体温に、ふと力が抜けた。
「もう怖くない。人の多いところに行こう、ダニエル」
そうか。
座り込んだダニエルは、リュザールを抱きしめ、優しく髪を撫でた。それから数分後、彼らを迎えにきた騎士団とアサドの手によって、盗人たちは捕縛され、そのままロンドン塔に送られたのだった。
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