第一話/白鳥のワルツ①【呪いの箱庭】
〈2/芽吹き〉
生まれて初めて袖を通す、真っ新のシャツ。固いボタン。流行り柄のタイ。そして、ほんの少し草臥れたジャケット。一つ一つ身に纏う度に、ルノーの胸の鼓動は高まっていく。
嗅ぎ慣れない整髪料の香りに戸惑いながら、胸元に一つ、紋章を留める。
真新しい、百合と本を模した小さな紋章。誇らしげに輝くそれに、思わず頬が熱くなる。
ああ、ついに。今日ついに。
夢見た日々が、始まるのだ。
感慨に浸る間もなく、下の階から母がルノーを呼ぶ。
「ルノー。下りてきなさい、ルノー。時間よ」
「はい、母さん!」
姿見に布をかけると、ルノーは鞄を携え自室を飛び出した。木製の階段をリズミカル軋ませ、リビングを覗く。そこには母、7人の弟たちが勢揃いしていた。皆階段の方へ体を向け、主役の登場を今か今かと待ちわびているのだ。
「あ、来た。兄ちゃん!」
「ど、どうしたのみんな。ちょっとビックリしちゃったじゃないか」
「お前さんを待ってたんだよ。まったく、随分と男前に育ってしまって」
水仕事でかさついた掌が、ルノーの頬を撫でる。「やめてくれよ」と言うも、それがただの照れ隠しだということは一目瞭然だった。
「ルノー」
小さな掌がルノーを抱きしめる。石鹸と小麦粉の混ざった。どこかな。ついこの間までふくよかな体型だったはずなのに、今では背で手が重ねてしまえるほど小さくなっている。自分が大きくなったのか、それとも母が痩せてしまったからか。
「ああ、なんて誇らしい。お前がその紋章を身につける日が来たなんて夢のよう」
「夢なわけないだろ、母さん! 兄貴の努力の結果だ。生まれてから十六年間、ずっーと一緒の俺が言うんだから間違いないさ」
「やめてくれよ、アントワーヌ……恥ずかしいって」
気がつけば、自身の声も僅かに震えていた。目の縁から1つ、滴が零れた瞬間、上着の裾を小さく引っ張られる。見ると弟たちが満面の笑みでこちらを見上げていた。ギィ、ウード、ユリアン。ついこの間7つになったばかりの、可愛い末っ子の三つ子達だ。
「ルノー兄さん。進学おめでとう」
「泣かないで」
「あのね、これ。俺たちが買ったんだ」
恥ずかしそうに、小さな箱が差し出される。布張りの紙箱に、艶やかなリボン。包装だけでここらでは買えないような上等な品であることは一目瞭然だ。どうしてこんな高価な物が。そう問いただしたい気持ちもあったが、野暮なことだと気持ちを抑える。
「綺麗な包みだ。ね、開けてもいい?」
「もちろん!」
丸い頬がつやつやと輝く。恐る恐る箱を開くと、中には一枚のハンカチが。色はルノーの好きなベージュ。上品な光沢を帯びた滑らかなシルクの生地だ。その端には金色の糸でルノーのイニシャルがあしらわれていた。
「……なんて素敵なんだ。ありがとう、大切にするよ」
「使ってくれる?」
「もちろんだよ。そうだ、丁度ここに入る」
ルノーはハンカチをたたみ直し、胸ポケットに差し込んだ。小さな3つの山がちょこんと覗く。掌に触れる柔らかな厚みが、ただただ愛おしかった。
「こいつら、朝起きて新聞配達したり、隣のパン屋へ手伝いに行ったり。毎日金貯めてたんだ。ずっと部屋で勉強していたルノー兄さんは知らないだろうけど」
「フロモンにいさん!」
「秘密って言ったじゃん」
小さな拳が六つ、フロモンの脚をこれでもかと叩く。だが所詮幼い拳だ。二つ年上の兄に取っては、蚊に刺される程度の威力でしかない。
「こら、フロモン。そういうのは黙ってやれよ」
「五月蠅いなぁオリブル」
弟たちのかわいらしい口論に、ルノーの緊張は自然とほぐれていく。そんな中、どんと母に背を押された。
「さあ、今日は迎えの馬車が来るんだろう。支度ができたんなら早く行きなさい」
潤んだ声に、ルノーは頷く。
「うん。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「いってらっしゃい兄さん!」
家族の見送りを背に、ルノーは家を飛び出した。瞬間、まるで羽が生えたように足が軽い。ドアを開けた瞬間肌に触れる爽やかな風が、胸を高揚感で満たす。まだ暑さの残る日差しを全身で浴びながら、光に慣れぬ目を開けた。
既に家の外には、下町には似つかわしくない豪勢な馬車が待ち構えていた。コーチの端には『ソバージュ社』のロゴが掲げられている。よく街中に出たときよく目にする、上流階級御用達の老舗辻馬車業者のものだ。まさか、自分が乗るときが来るだなんて。
どこかアンバランスな情景に見とれていると、御者らしき少年が「おーい」と手を振った。歳はかなり若い。およそ十四、五歳。丁度ジョフロワと同じくらいだろうか。流行のハンチング帽を被り、短く切りそろえた赤茶の巻き毛を揺らしながら、彼は人懐こく微笑んだ。
「ようやくお出ましか。待ちくたびれたぜ?」
声変わりして間もない、どこか幼さの残る声。それは、やっと現れた上客へと向けられているが、当の本人は馬車に見蕩れ、目を輝かせるばかりだ。
「ん? 聞こえているか。おーい」
ルノーははっと我に返り、会釈する。
「あ、あの。すみません。本日はよろしくお願いします」
「おっと、丁寧な学生さんだ。別に頭なんて下げなくてもいいのにさ」
「でも、運んで貰うんですから、礼儀は示さないと……」
「ははは、では此方も最大の敬意を、お迎えに上がりましたムシュー」
御者はハンチング帽を取り、深々と礼をした。彼が指を鳴らすと、コーチの扉が開き折りたたみ式の階段が下りる。骨組みは金鍍金で、足場は赤の布が張られている。目をこらせば、同系色の糸で刺繍まで施されているではないか。こんな綺麗な物踏んでもいいのか、とルノーはつい躊躇ってしまう。
「こんなところで目かっぴらいていたら、学院に着く頃には目玉落としちまう。遅れるぜ、早く乗りな」
「は、はい……!」
ルノーは泥で座席を汚さぬようにと石畳に靴裏をこすりつけ、鼓動する心臓へ手を当てる。大丈夫、大丈夫。ただ馬車の中に入るだけだ。そう言い聞かせなければ、情けない声を上げて逃げ出してしまう。そして恐る恐る段差に足をかけると、一歩一歩段を上りコーチの中へと入る。
その中はまるで、人が入れる宝石箱のような空間だった。階段と同じ赤布の壁紙、自室の毛布より柔らかなカーペット、白い光沢を帯びたカーテン。終いには天井に小さなシャンデリアがぶら下がっている。自身が動く度に揺れる、繊細なクリスタル。じっと眺めて居ると、後ろで静かに扉が閉じた。
「ひっ」
「驚かせたか? すまないすまない。出発するから席に着きな。少々揺れるぜ」
ルノーは慌てて、かつ慎重にソファへと腰かける。クッションがみっちりと包まれたそれは、今まで座ったどんな椅子よりも柔らかで、自分が座っていいものなのかと心配すらしてしまう。
「さ、いくぞ!」
ぱちん、と外で軽く鞭打つ音が聞こえた。同時にコーチの中がぐらりと揺れる。ルノーは反射的に鞄を握り、身を縮こまらせた。なんせ、馬車に乗ること自体が初体験。緊張するのも当たり前だった。
暫くして揺れになれた頃。ルノーはそっと正面の小窓へと目をやった。分厚い辞書の背表紙ほどの隙間から、ぐらぐらと揺れ動く街が見える。
これが、馬車の中の景色か。
からからと石畳を進む蹄鉄の音。馬のうなり声。鞭の鳴る音。普段、道行くそれらを聞く機会は、幾度となくあった。日常の家具の音に過ぎなかった音達は、今やルノーの胸を高鳴らせる最高のオーケストラも同然だ。
祖父譲りの皮の鞄を、力強く抱きしめる。
「ん? 落ち着かないか」
「うわっ⁈」
突如、窓から2つの目玉が現れた。ぎょろりと覗き込むそれに、ルノーは情けない声を上げる。
「悪い悪い、脅かすつもりはなかったんだ。少し、話をしたくて」
「話?」
人懐っこい瞳が、にやりと細まる。
「ああ、君については学院の方から……といっても噂を小耳に挟んだ程度だがな。少し話を聞いてる。なんとまあ、試験を優秀な成績で突破した特待生らしいじゃないか。しかも、平民出身は開校以来初だとか!」
「そ、そんな。まぐれですって」
「まぐれじゃ試験は受からないぜ。謙遜すんな。でもまあ、あの学院に来るのは爵位持ちの親を持った子ども達や、金持ち商家の出身ばかり。一般家庭出身の君にとっては衝撃を感じる世界だと思う。立場は違うが、俺もこんな仕事をしているから似たような経験はあるぜ」
……まあ、驚くだろうよ。
どこかしずかな御者の語り口に、ルノーは無意識に下唇を噛んだ。
かつて……ルノーが生まれるずっと前のこと。この国は王国だった。だが、貴族社会の腐敗と国民の国民の暴動によって王政は幕を閉じ、共和制国家へと生まれ変わった。以来様々な貴族制度を経て、現在は『復古貴族制』へと落ち着いている。かつての王政時代程の権限は持ち合わせて居ないが、現代の貴族達は暗黙の了解的に特権階級の扱いを受けていた。
そんな貴族の血を引く学生達と同じ屋根の下勉学に励むのだ。不安はある。
「貴族さまなんて、慣れればどうってことないさ。気をつけるとすれば、この辺りの人間だ。治安は最悪な場所よりかは幾分かマシだが、心ない奴は昔っからいる。気をつけろ」
御者がちらりと外の景色に目配せをする。仕切り布の間から目を覗かせると、行き交う人々がこの上等な馬車にじっと視線を注いでいる。それは憧憬とも憎悪ともつかぬ、不安定な眼差しだ。素肌をぬかるみにさらすような、纏わり付くいたたまれなさに思わず目を背けた。
「安心しな、うちの馬車は防御魔術が施されている。そこらへんの魔術師じゃ傷どころか触れることすら叶わない。俺の防御は鉄壁だぜ。全く、それにしてもお偉いさんは何考えて居るんだか。確かに学生を送り届けることは大切だが、俺らみたいな平民の住む地域にこんな巧者な馬車を寄越したら、別の意味で危険だろうが。ま、しばらくは戸締まりに気をつけろってお袋さんに言っておけよ」
存外暗い話題に、ルノーは視線を落とす。この空気を変えなくては、という根拠のない使命感が湧き上がってきた。
「……あなたも、この地域出身なんですか?」
すると、明るくなった御者の声が聞こえてくる。
「ああ、なかなかの悪ガキでね。二つ先の角にあるパン屋を知ってるか? あそこの店主によく怒られたものだ。もう随分と昔の話になる。そうだ、学院に着くまでまだいくらか時間がかかる。以前乗せた面白い客について話してやろうか!色々あるぜ、例えば……」
愉快な御者の語り口は、まるで喜劇俳優のそれだった。すらすらと紡がれる語り口は、引きつっていたルノーの心を解きほぐす。不安の中に埋もれた、新生活への希望の種を大事に抱え、ルノーはしゃんと、背筋を伸ばした。
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