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第四話/獅子の心臓⑤【ペンドラゴンの騎士】

五章/洛陽

 何もかもが眩しかった。
 ロンドンの街も、ペンドラゴン城も、アカデミーも。片田舎の町医者の息子である自分には、見惚れるほど美しかった。
 ああ、今日からここで暮らすんだ。ここで、医師を目指すんだ。
 高鳴る胸、広がる期待。ダニエル・ギースは、目を輝かせながら、古城の石畳を踏み締めるのだった。
 だが、アカデミーに溢れるのは中上流階級の若者ばかりで、実に居心地が悪い。そして田舎育ちということもあり、一部、本当に一部のある意味誠実な者たちから受ける、妙な嫌がらせの標的となってしまった。道具を隠されたり、靴を吊るされたり。日常茶飯事であった。
 田舎者はこうなる運命なのだろうか。抵抗する術もなく現実を受け入れるしかないのか。精神が擦り切れ、限界を迎えた頃。一人の転入生がやってきた。
「アレキサンドリアから来ました。アサドです。途中からの入学だけど、仲良くしてくれると嬉しいな」
 太陽。彼を形容するにはそれが最適だった。
 黄金の髪、黄金の瞳。そして、褐色の肌。異邦の風を感っ時させる編入生は、たちまちアカデミーの騎士たちの注目の的となった。美貌に加え、ビブリオ=アレキサンドリアからやってきたという、地位すらも兼ね備えている。彼は紹介の後、すぐに多くの生徒に囲まれた。嬉しそうに質問の受け答えをする彼に、「ああ、彼は自分とは遠い場所の存在なのだ」。そう諦め感情を抱いていた。だが、ダニエルはこのアサドという人物を甘く見ていた。
「君、いつも一人だね。ご飯どこで食べているの」
「⁉」
 一人、ボロボロの教科書を片付ける最中。彼は躊躇いなく声をかけてきた。
「え、え」
「君、誰かと一緒にいるの見たことがないからさ。暇だったら今日一緒にいい? 確か、ダニエル・ギース君だったよね」
 周りが見えていないのか。この教室の内情を知らないとはいえ、自分に声をかけるだなんて正気じゃない。少なくとも、数日同じ空間を共有すれば、察しがつくはずだ。もしかしなくても、空気が読めないのか、彼は。
「いや、いい、です。一人が好きなので」
「なんだよ、釣れないなぁ。僕の目標は、このアカデミー全員と仲良くすることなんだ。ね、一日くらい付き合ってくれてもいいだろう」
 逃げようとした。だが、すかさず手首を掴まれ、教室の外へと引っ張っられた。輝く太陽に手を引かれる、いじめられっ子という構図は好奇の視線に晒され、かつてないほどの注目に顔から火が出るかと思うほど熱い。
「ア、アサド君……! ちょっと、やめ……」
「アサドって呼んでよ。な、ダニー!」
 まぶしい、眩しい。
 普通こんなことできるのか。はぐれものの自分の手を、なんの躊躇いもなく引く。その光景が、その姿が。まるで太陽を見ているかのように眩しかった。
「え、仲間はずれ?」
 屋上近くの人気の少ないベルコニーにて、彼は素っ頓狂な声をあげる。まるで理解できないと言うように呆ける彼に対し、このロンドンで繰り広げられる逃れられない階級差、そして平等を謳いながらもなくならないいじめ行為を話した。自分のお店をさらけ出すようなものだ。徐々にダニエルの声は震え、ひきつり始めた。目が潤み始めたその時、アサドが声を上げた。
「じゃあ、僕がずっと一緒にいる」
 思わず「は、」と声をこぼしてしまった。ついさっきこの太陽のような青年は「アカデミー全員と仲良くする」と言ったばかりではないか。
「でも、その中でずっと辛い目に遭う人がいるのは嫌だ。そう思うのは普通だろう?」
「普通、普通……なのか」
「ああ、普通だ」
 アサドは、どんとダニエルの背を叩く。
「もし君が俯いたって、僕が必ず上を向かせて見せるよ」
「……そんな歯の浮くような台詞、よく言えますね」
 まるで当たる前のように胸を張る。その姿は、かつて絵本の中で見た憧れの騎士そのもの。その一瞬にて、ダニエルはこの青年の全てに心を奪われてしまった。そして、二人きりであるが、かつて思い描いた幸福な学生生活がはじまったのだった。
 一度、惹き込まれてしまった方が負け。そう言う言葉があるように、徐々に徐々にアサドの危なっかしい一面が詳らかとなり、ダニエルが頭を抱えることになるのは、また別の話である。

・・・

 あれから、三年の時が経過した。アサドが戦場に旅立ってから、三年だ。
 小さかったリュザールは、ダニエルの背に追いつくほどに成長した。小顔立ちこそまだ幼さは残るが、中東地域特有の彫りの深い目元は、十分すぎるくらいに彼を美男子に仕立て上げている。現在彼は、アガルクトニの卓越した頭脳と語学力を生かし、騎士団の事務処理の手伝いや、通訳の仕事を手伝っている。まだ若いのによくやるね、と客人や騎士たちに言われるのが、彼の楽しみだった。
 戦争の前線に向かったアサドは、未だテンビーに帰らない。だが数ヶ月に一度。手紙を寄越してくることがある。その時はダニエルをはじめとした騎士団の騎士たちと一緒に、覗き込むようにして便箋を読んだものだ。
 だがここ半年、めっきり手紙が来なくなった。終戦を迎えて向こうもバタバタしているのだろうと分隊長は言っていたが、ダニエルは目に見えて不安そうであった。毎朝のようにポストを確認しにいき、アサドからの便りが無いと知ると、あからさまに落ち込んだ顔で帰ってくる。
 そのうち来るよ、と声を掛ければ切なげに彼は頷く。
「忙しいんだ。きっと、手紙より先に本人がやってくるに違いないよ」
「うん、彼のことなら」
 悲しそうに笑う彼を見ながら、早く帰ってきてと何度願ったことか。彼らにできたことは、いつ何時でもアサドが帰って来られるように『いつものテンビー』を彩ることであった。
 だが、この日は違ったようだ。
「リュザール、リュザール!」
 頬を紅潮させたダニエルが、リュザールと共用の執務室に飛んできた。彼が顔色を変えながら館内を走り回っているのは、日常茶飯事。大抵の騎士達はあまり気にしない。せいぜい「ああ、まあ何か」あったのだろうな、と出来事の始まりを感じるだけだ。それはリュザールも同じである。だが、今日だけは何かが違った。彼の体から滲みでる其れは、高揚、喜び。滅多に見られるものではない。
「どうしたの。いつも館内は走っちゃ駄目だって言ってるじゃん」
「君に知らせが届いた。僕達に知らせが!」
「しらせ?」
 彼が渡してきたのは、赤い封蝋の押された手紙だった。くっきりと浮かぶ竜の紋章に見覚えがある。これは、ペンドラゴン十三騎士団本部であるロンドン=ペンドラゴン城からの手紙だ。宛名はテンビー騎士団長であるダニエル、そしてリュザールへだった。こうして名指しで手紙がやってくることは今までなかった。大抵はテンビー騎士団宛てに送られてきていたのだ。
 アサドについての手紙だ。そうリュザールは直感する。
「開けていい?」
「もちろんだ。僕達宛てだからね」
 デスクのペーパーナイフを掴み、器用に中の封筒を取り出す。そこに書かれていたのは、数ヶ月ぶりに目にする懐かしい字だった。

『ダニエル、そしてリュザールへ
 僕です。アサドです。長い間便りを出せなくて本当にごめん。
 やっと、戦争が終わりました。僕も、やっと帰国することができました。そうです。実はもう既にペンドラゴン城まで帰ってきています。正確には、直ぐ側のカデュケウス第一総合病院だけれども。
 可愛いリュザール。少年時代の三年間というものは、とても長いものです。きっと、もう僕の知らない姿になっているかもしれません。
 どうか、会いに来てくださいませんか。テンビーにかえるその前に、もう一度君の顔が見たいです。
 押しつけがましい願いでごめんね。でも、待っています』

 末尾には、癖のある字体で『アサド』と書名がある。読み終えた瞬間、リュザールは思わず飛び上がった。
「アサドが、アサドが帰ってきた!」
 それを耳にしたダニエルは、本当か!、と親友の帰還に目を輝かせる。そして手渡された手紙に目を落とし、より一層頬を高潮させる。
「ならば今すぐにでも駅へ向かおう! ああ、後病院にいると言うことだからな、何か手土産もあった方がいいだろう。リュザール! あいつ、何が好きだったけ!」
「スターゲイジーパイはどう?」
「ははは、名案だ! いいな、折角だし向こうでできたてを作ってやるか!」
 そう言いながらダニエルは、わかりやすく浮き足だった様子で部屋を出ていった。リュザールも、扉を閉めるとぐっと拳を握りしめた。
 彼が、帰ってくる。
 ついつい破顔する顔を押さえ、柄にもなくくるりと回る。
 その日の午後、ロンドンに向かう馬車は出発した。夜が開けてからでいいのでは、と騎士団の者たちに言われたが、気分が乗った二人の耳には通らない。
 彼等がロンドンに着いたのは、翌日の夕方頃だった。ロンドン=ペンドラゴン城にて形式張った挨拶をすませ、カデュケウス第一総合病院へと向かう。勿論、手には出来立てのスター・ゲイジーパイを携えて。
 待ちに待った再開の時が迫っている……というのに、アサドの名を聞いた病院の受付看護師の表情はどこか俯き加減だった。
「はい……お待ちしておりました。直ぐに、ご案内しますね」
「よ、よろしくお願いします」
 あからさまに気落ちした態度に、ダニエルは首をかしげる。リュザールは察した。疑いながらも看護師の後を進むダニエルの背を見つめ、唇を結ぶ。暫くし、背後の気配に気づかなかったのだろう。ダニエルは振り返り、リュザールを見遣った。
「どうした。腹でも痛いのか」
「うぅん。少し、考え事」
 そう言って、鉛のように重い足をすすめる。
 行きたくない、行きたくない。行きたく、ない。
 それでもその時は刻々と近づいてくる。看護師は、集中治療病棟の一室の前にて止まり、部屋番号と書類に目を通した。
「こちら、アサド卿のお部屋です」
 この時には、流石のダニエルも気がついていたのだろう。顔面を蒼白させ、恐る恐る扉を開くと、そこにアサドはいた。
 だが、その姿は二人の知るソレではない。全身を包帯に覆われ、体中に様々な管が通されている。あれほど健康で筋肉質だった体は嘘のようにのようにしぼみ、枝のように痩せこけている。生きているかどうか、遠目ではわからないほどの衰弱ぶりだった。
「……アサド」
 不意に出した声が、ひどく震えていることに我ながら驚いた。アサドは自身を呼ぶ声に応えるよう、そっと頭を動かし振り替える。
「ダニエル、リュザール……ふふ、来てくれたんだね」
「お前……一体どういうことだ!」
 ダニエルは声を荒げた。看護師の制止を振り切り、足音を立てて近づく。
 その怒りは最もだ。手紙ではたった一行も、一文字も、こうなったことが書かれていなかった。まるで元気に車椅子を乗り回しているような、そんな文章だった。
「騎士様、他の患者様もいらっしゃいます。どうか、声を抑えて」
 騒ぎを聞きつけたのだろう。アサドの担当医と思しき白衣の人物がやってきた。
「アサドは、どうして……!」
 担当医は俯き、ゆっくりと話し始めた。
 アサドは前線騎士として、兵士を導き立派に戦い抜いていた。殆どの国では獣の病罹患者を前線に出すことはせず魔術師だけが戦っている。彼等はアサドをはじめとした、基礎身体能力の高い獣の騎士たちに大いに苦しめられていたという。
 英国は終盤まで善戦していたが、いかんせん戦いは長引きすぎた。突如、対獣の騎士用の化学兵器が投入されたのだ。それにより、多くの獣の騎士達は被害を受ける。最終的には勝利を収めたが、多くの騎士達が後遺症を患ったのだ。
 アサドもまた、その一人だという。
「彼はまだマシな方だ。ひどい場合は全身皮膚を溶かされ、骨だけになった者もいる」
「……な、治るんですよね」
 縋るようにダニエルは問うたが、返ってきたのは、余りにも残酷な答えだった。
「残念ながら、彼の傷は癒えることはありません。それどころか、今も浸食を続けており、数日後には……」
 言葉が終わる前に、ダニエルは泣き崩れた。今まで耳にしたことのない、悲痛に焼かれる嗚咽が、清潔な病室の中に、ただ、響く。
「泣かないで」
 ベッドから伸びる、包帯まみれの手。ダニエルの背を引っ掻くように触れるそれを、彼は握り締めた。目を赤くし、慟哭する。
「ごめん、ごめんね。そんなつもりじゃ、なかった」
「ばか、ばか……約束、しただろう」
「約束した、ね」
 崩れ落ちた床から顔の見えないアサドを見上げ、指に触れる。「こいつ、こいつ……」。そう恨み言を言いながらも、ダニエルは眉を顰め、笑っていた。
「アサド……」
 触れるだけの二人の指を、繋ぐように手を握ると、アサドの頬まで避けた跡のある唇が微笑んだ。
「リュザール、来てくれたんだ。ふふ、少し声が低くなった。背も大きくなったけど、変わらないね」
 その言葉を聞いた瞬間、リュザールは悟った。本当に、彼はもう駄目なのだと。
 きっとアサドは恐らく空気や音、匂いによって、周りを判断している。感覚をつなぎ合わせて、影絵のように者や人の居場所を言い当てている。
 アサド。僕、髪を切ったんだ。アサドと同じくらいに短くしたんだよ。
 もう、視えないだね。
 そう喉まで出かかった言葉を、リュザールは飲み込む。きっと、伝えてもアサドの気遣いを無下にするだけだ。ダニエルすら、傷つけて仕舞うかも知れない。ならば、僅かな罪を抱えた方が、何倍もよかった。
「うん。アサドも。覚えてくれていて、よかった」
 傷まみれの顔は、またほころぶように微笑んだ。
 背後からひとしきり泣き追えたダニエルが、目を赤くして顔を出す。
「アサド……何で手紙に書かなかった。こんなサプライズ、最低だぞ」
「ごめんごめん。本当は書くつもりだったんだけど、どうにも気恥ずかしくて……ほら、知るなら手紙でも直でも一緒かなーって」
「馬鹿、本当に馬鹿! 俺たちの心を弄びやがって!」
 行き場のないダニエルの拳は、どんどんとクッションを叩いた。
「ちょっと、ダニエル。病院で暴力沙汰はよくないよ」
「お前のせいだろウスラトンカチ!」
 泣き怒るダニエルを宥めるリュザールは、彼らから、小さな叫びを聞いた。
 ずっと、太陽でいてくれるって言ったじゃないか、と。

・・

 それから三人は、騎士団と病院から許可を取り、数日間の間共に過ごすことになった。残り僅かな余生を、仲間と過ごして欲しいという意思とテンビーとロンドン、両騎士団の計らいだった。
 与えられた五日間は実に穏やかな日々だった。残念ながらスターゲイジーパイを食べさせる許しは出なかったが、一緒に食事をとったり、外の風を浴びに行ったり。まるで空白だった三年間を埋め合わせるかのような夢想が続いた。
「ですが、彼がここまで耐えたのは、奇跡とでも言いましょうか。同時期に被害を受け他兵士達の八割は港に着く前に息絶えたか、もって三日でした。彼にとって、二人の存在は大きなものだったのでしょう」
 そう医師は言っていた、リュザールは、もしかしたらこのまま生き延びるかも知れないと淡い期待を抱きもした。
 だが現実とは残酷なもので、化学兵器の傷は容赦なく彼を蝕んでいった。その速さは尋常ではなく、一日目には車椅子を使って外に出られたものの四日目になる頃には、ベッドから出ることすらできなくなっていた。
 じきにその時が訪れる。リュザルもダニエルも、否応なしにその事実を突きつけられた。ついにある夕暮れ時、医師に「今夜が山だろう」と告げられた。二人は最後のその時まで共にいようと、夜通し起き続けることを決める。
「ダニエルはまだしも、リュザールは寝な。まだ子どもなんだから」
「嫌だ。起きてる」
「強情め、誰に似たんだか」
「ふふ、誰だろうね」
 三人だけの静かな夜は更けていく。沈黙の中に溶けていく呼吸は、アサドの行き先を暗喩しているかのようで嫌だった。
 ふと顔を上げると、窓の外が薄ぼんやりと赤くなっているのが見えた。
「もうすぐ夜明けだよ、アサド」
 常に曇り空のロンドンの街が、この時ばかりは晴れていた。あの朝と同じ、クリーム色の光がアサドを包む。
「ああ、本当だ。暖かい」
 そろそろ、かな。
 呟くアサドに、リュザールは微笑みかけた。
「おやすみ」
 短く言うと、ほんの一瞬、アサドの額に触れた。傷だらけの皮膚は、かつての彼の額とは比べものにならないほど凸凹していた。うっすらとした血と消毒液の匂いが鼻腔に広がるも、奥底に微かな草原の香りを感じる。
 ゆっくりと顔を上げると、アサドは困惑と喜びの入り交じった声で尋ねる。
「リュザール……?」
「おやすみのキス。ただのおやすみのキスだよ」
「……そうか。ふふ、嬉しいな」
 白く濁り、視力を失ったはずの瞳がゆっくりと移動する。
「ダニエルは……君は、してくれないの。おやすみのキス」
「嫌だ。子どもじゃあるまいし」
 必死に絞り出された彼の声は、平然を装っていると主張するには、余りにも震えている。アサドは涙ぐむ幼馴染みに向かって微笑むと、再び瞼を閉じる。その様子を見逃すまいと、リュザールはじっと見届けた。
「おやすみ。ふたりとも。大事な、大事な。僕の兄弟」
 途切れ途切れだった呼吸は、徐々に緩やかに落ちていく。まるで力を手放していく振り子のように。
「おやすみ、兄さん。貴方は、僕の誇りです」
 痩せ細った彼の手を取り、血潮が止まるその時まで、願い続けた。
 どうか、安らかに。

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