第一話/白鳥のワルツ②【呪いの箱庭】
〈4/白鳥の少年〉
「皆さんご存じの通り、獣の病の罹患者の体は加工を施すことによって魔書になります。生産された魔書の特製は、素体の性質、作り手となった装幀師の実力、及び使用した魔術式など様々な要因が絡み合って決まります。過去に一つの素体を分け合い二人の装蹄師がそれぞれの魔書を生産した結果、全く異なる性質の魔書が生まれたこともあり……」
教授は淡々と授業を進め、まるで活版印刷かのように整った字で板書を進めていく。ルノーは黒板とノートを交互に見ながら紙の上に鉛筆を走らせ、この時間を一秒たりとも無駄にしないようにと必死になる。
「ふむ、では次の頁を」
ルノーが教本の頁に手をかけたその時だった。教室の外、校内で一番高い塔にぶら下がる鐘の音が鳴り響く。同時に学生達が教材を片付け始めた。終業の時間だ。
「残念ですが、本日はここまで。『獣の病の種類とそれに関する特性』についての単元は明日で終わりそうですね。後日小テストを行います。次は『獣の病の遺伝』についてお話していきますので予習はしっかりとおこなうこと」
学生達は気の抜けた返事を、ある者は友人との歓談を楽しみある者は食事を取り始める。思い思いの行動をする誰もが楽しそうに見えた。羨ましいと言えば嘘になる。
ルノーは残りの板書を済ませると、机の上を纏めて教壇の方へと駆け下りる。丁度、教授が立ち去ろうとする瞬間だった。
「す、…すみません」
「ん。ああ、君か」
眉間に小さな皺を作りながら、心底めんどくさそうに彼は言う。こう、あからさまな表情は心に来る。この表情を見るのは何度目だろうか。
平然と取り繕い、持ってきた教本の頁を指さした。
「教本のこの部分、『獣の呪い』についての質問なのですが、これは持つ病と持たない病が存在する。その認識で間違いないでしょうか」
「いいや、厳密には異なる。獣の呪いとは、専門家の測定とサンプルの収集によって初めて定義されるものだ。有史以前から存在するとはいえ、今だ全ての呪いについて完璧に網羅されたというわけではない。数年前も既存の病から新たな呪いが発見されたという事例がある。詳しくは一八五〇年代の資料を見るといい」
教授はそう言い残すと、くりると踵を返し足早に教室を去った。一人残されたルノーは肩をすくめ、ため息をつく。
彼はまだ、良い方だ。ちゃんと質問には応えてくれるのだから。自分にそう言い聞かせ、ルノーはノートにメモをとる。
学園で人材育成及び教育改革として平民出身の学生に対する特別入学措置、所謂学費免除制度が導入されたのが去年。始めたはいいものの、試験の結果入学を果たしたのはルノーただ一人。つまり、現在学院唯一の平民なのだ。
貴族社会性が根強く残るこの学院内では平民と言うだけで好奇の目に晒される。差別的な言葉は勿論、ものの紛失は日常茶飯事。軽い痣が付く日もあるし、教授の中には質問しても無視してくる者もいる。
最初の一ヶ月で感情の処理とやらには慣れてきた。だがルノーも人間だ。わけもなく冷たい対応をされれば傷つく。
席に戻るとメモが一つ。
『失せろ、下衆野郎』
またか。ルノーはため息を吐く。心なしか、周囲からの視線を感じる。この中の一人が……いや、場合によっては一人ではない。集団で企んでいた可能性もある。今すぐにでもメモを破り捨てたいが、過剰な反応を見せれば火に油を注ぐだけ。入学から今まででしっかり学んだ。
なにはともあれ、教材が無事でよかった。ルノーは安堵し、メモをポケットに突っ込んで教室を去った。廊下に出た瞬間、向けられた視線の数が倍に増える。肌に電撃に似た緊張感が走る。
あれ、平民の。
そうだ、平民の首席。
生意気だよな、まだ学校に居るのか。
まったく、目障りだ。
嫌でも耳に入る棘のような言葉の数々。内頬を噛みしめながら、じっと耐える。
聞こえないふり、聞こえないふり。
自分にそう言い聞かせても、言葉の数々は無慈悲に突き刺さる。盾を持たないルノーは、槍の前では無力だった。
せめて崩れた表情は見られないように、と人目から逃げるように校舎裏へと向かった。途端耐えきれず零れた涙をハンカチで拭い、誰にも見られていませんようにと祈る。早く心を休めたい。そう願って安息の場へと向かう。
毎日昼食時に訪れる、校舎裏の物陰。有象無象のガラクタの山に隠れ、静かに食事を摂るのがルノーの日課だ。日当たりも悪く苔も虫もよく沸くこの場所に好き好んでやってくる者はいない。静かな風の声と生き物たちの楽園が、彼に取って校内で唯一心安らげる場所だった。
もうすぐ休める。安堵もつかの間、何者かの話し声が耳に入る。
「本当か? あの平民がここに来るって」
「ああ、この目でしっかりと見た。間違いないって」
「本当、噂に聞いていたが不気味な場所だな……あいつが居座るのも納得だ」
「言えてる」
平民。間違いない、自分の事だ。心臓が締め付けられる。音を立てずに覗き込むと、底には何人かの男子生徒が談笑していた。しかも、校内ところ構わず好き放題している集団。所謂不良生徒たちだ。見つかればどうなるかは目に見えている。
幸い、見つかった様子はない。ルノーは息を潜め、ゆっくりと後ろ歩きを始める。声の届かない場所まで引き返すと、一目散にその場を去った。
さて、このままどうしようか。頭を抱える。次の授業までまだ時間がある。できれば人気の無い静かな場所で休息をとりたい。そんな場所が、あの校舎裏以外にあっただろうか。
「……そういえば」
一つ、思い当たる場所があった。旧校舎だ。廃墟同然にもかかわらず、展示という謎の名目で保存されている建造物。校舎裏には劣るが、それなりに不気味な雰囲気を纏っている。そして、何度か前を通った時、一度も人の気配を感じなかった。
善は急げ、とルノーは足を速める。狭い校舎と校舎の間を縫うように進み、目的地へと向かった。程なくして目の前に現れたそれは、記憶よりも数倍陰鬱な出で立ちだった。まるでそびえ立つ魔物のような威圧感に息を飲むが、意を決して中へと入る。
予想通り、内部に人影はなかった。日光がまともに入らないせいで足元は暗いが、なんとか歩けはする。今にも幽霊が出てきそうな雰囲気だが、幼い頃遊びで入った町の廃墟よりはマシだ。
どこか、隠れそうな場所は。
ぐるりと辺りを見渡し、手頃な部屋を探す。この建物内ではどこで休んでも同じかもしれないが、少しでも見つかる可能性がある場所が欲しかった。
「……!、あそこなら」
見つけたのは、校舎の端。倉庫だろうか?古びた木製の扉が一つ佇んでいる。取っ手を見れば内側から鍵がかけられる仕様になっているらしい。おあつらえ向きの部屋にルノーは目を輝かせ、念のためと扉に耳を押し当てた。物音一つしない。微かに流れる風の音だけが木と木の隙間を通り抜けてくるだけだ。
立ち入り禁止区域ではない。怒られれば謝ればいい。そう自分に言い聞かせ、取っ手を押し開けた。
中は予想通り、古い倉庫だった。古い教材や資料が木箱や床に山積みにされている。お世辞にも綺麗とは言えない空間だ。ルノーはゆっくりと敷居を跨ぎ、狭苦しいこの空間に、謎の安堵感を感じながら鍵をかける。
一息吐き、近くの脚立を寄せ腰かける。さて、昼食だと懐に忍ばせていたパンを手に取った瞬間だった。
「誰だ」
「ひっ」
鋭い男の声が、ルノーの心臓を貫いた。背筋を冷や手が這うような、名状しがたい戦慄感が襲う。
若い声、学生だろうか。
恐る恐る視線を上げ、部屋の中を見渡した。心臓の脈打つ音が脳に響く。
どこだ、一体。
見ると、ちょうど窓枠の近く。カーテンによって隠れる位置に一つの影が見えた。輪郭がぼやけ、向こうにどんな人物がいるのかわからない。ただ唯一、此方を凝視しているということは理解できた。
「あ、」
思わず声を出した、その瞬間。ひときわ大きな風が、窓から滑り込む。それは薄いレースのカーテンをふんわりと持ち上げ、おぼろげだった輪郭がはっきりと映る。
美しい。
彼の姿を目にした瞬間、ルノーの脳裏には、ただその一言だけがよぎった。
座っている状態でもわかる大柄な体格に、高貴な出自を想像させる品の良い衣服。無造作に、されど形よく整えられた白銀色の髪。どことなく歳不相応の色気を感じさせる垂れ気味の眼孔には、マグマの胎動を思わせる、赤い瞳が嵌まっている。穏やかな午後の風を纏う青年は、青空と相まって湖を滑る高貴な白鳥を彷彿とさせた。
「あ……」
ぐらりと青年の体が動く。何も言わず長い腕を伸ばし、此方に向かって歩み寄ってくる。ルノーは恐怖した。感情の読み取れない無機質な瞳が、ただただ恐ろしかった。逃げよう、と考えるも体は動かない。ただ呆然と、迫り来る掌を眺めるしかなかった。
熱い掌が腕を掴んだ瞬間、青年はぽつりと言う。
「……ルノー・パンスロン……」
「え、あ、は、はい!」
突然名を呼ばれ、裏返った声で返事する。うわずった声に驚いたのか、赤い瞳がくるりと丸くなった。腕から手が放される。
「す、すまん。驚かせてしまった」
「こちら、こそ。急に入ってきてすみません」
「鍵をかけていなかった俺も俺だからな。別にいい」
「そ、そそ、そうですか……」
しんと、二人の間に沈黙が流れる。何か話そう。天気の話をしようか。いいや、ありきたり過ぎる。それとも何故ここにいるのか聞こうか?それも止めておこう、聞いてはいけない気がする。
挙動不審に動くルノーの瞳に気づいたのだろう。青年は口を開く。
「お前も、隠れにきたのか」
「ど、どうして……」
「ルノー・パンスロンがこんな辺鄙な旧校舎にやってくる。しかも一人で。導き出される答えは簡単だろう」
薄い唇が、不適に弧を描く。ルノーははっと気がついた。
「あの。どうして、僕の名前を」
「お前は知らないだろうが、結構な有名人なんだぜ。平民の特待生ってな」
彼の声に、無邪気な高揚をを感じる。その言葉を、言葉のまま受け取るべきか、皮肉と取るべきか。胸の奥に黒い靄が生まれた気がした。
「……あと、多分、気づいていなかっただろうが。一回校内ですれ違っているんだ」
「え、本当ですか⁈」
驚いた。こんな美丈夫とすれ違っていたら、どうあっても印象に残ることだろう。
「無理もないさ。ずっと、下を向いていたからな。やっと、瞳の色がわかった」
綺麗な縹色だな。俺とは正反対の。
青年はそう言って、自身の瞳を指さした。
「貴方の瞳も、とても綺麗です……まるで、カーヴァングルのようで」
「カーヴァングル! なんて俺と不釣り合いなんだ! ははは……いいや、なんでもない」
未だくつくつと笑い続ける青年。おかしなことでも言ってしまったのか。ルノーは湧き上がる申し訳なさに、瞳が右往左往と忙しなく動く。
「揶揄うつもりはなかったんだ。すまない。お前の様な人間と話すのが新鮮なんだ」
「平民、とですか」
「否定はしないが、それ以上に年下と話す機会があまりなくてな。幼馴染みがいるが、皆俺より年上で。たった数ヶ月生まれ月が違うだけで兄姉面だ。それがもう十五年だよ」
「……十八です」
「え、」
ぴくり、と大げさとも言える挙動で青年が顔を上げた。
「十八? 何が」
「僕の年齢です……」
立てば見上げるであろうその大きな体躯が、猫のように跳ねた。
「……嘘だろ? 俺より三つも年上なのか⁈ 嘘だろ!」
青年はルノーの全身を見渡し叫ぶ。涼しげな雰囲気から想像できない素っ頓狂な声に、ルノーは「またか」と心の中で呟いた。
二回も言わなくても……
確かにルノーは、実年齢よりも幼く見られることが多い。幼い頃から小食で、成長期に満足な栄養を取ることができなかったのが主な原因だろう。それに加え、父親譲りの童顔だ。今まで何度も年下扱いをされてきたが、やはり傷つくものは傷つく。
しゅんと肩を落とすルノーに気づいたのか、青年は申し訳なさそうに口を開く。
「あ……すまなかった」
「いいです。別に。慣れていますから……」
青年は、窓辺から下り、足下にあったバスケットを拾う。それをそっとルノーに差し出した。
「よかったら、食べないか。余ってんだよ」
昼飯、食いに来たんだろう。
ルノーの持つ小さな昼食を指さし、彼は言った。
「いえ、結構です。自分はこれだけで」
「木を、悪くしてしまった詫びだ。流石に俺でもこの量は食い切れねぇ」
バスケットを開くと、そこには目一杯の食事が詰め込まれていた。パンにお菓子、フルーツにおおよそ一人では食べ切れない量がそこにあった。
「ご、ご馳走だ……!」
「まあ、助けると思ってさ、少し貰ってくれよ。なんなら、持って帰ってもいいぜ」
手渡されるまま、菓子を一つ摘まんだ。赤い木の実の入ったビスキュイ。恐る恐る口に含む。さくりと軽快な音を立てて、記事が崩れた。
「美味しいです、」
「それならよかった」
座れよ。
青年は低い丸椅子を手渡し、自身の隣を指さした。ルノーは言われるがまま腰かける。
「ところで、お前。なんでこんな場所に来るわけさ。飯を食べるならこんな寂れた資料室じゃなくてもいいだろう。他にも人のいない場所はある」
その言葉にルノーは戸惑い、今までのいきさつをポツポツと話す。
「ああ、なるほどな」
青年は合点がいったように頷く。嫌みったらしくため息を吐いた。
「つまり、貴族のお坊ちゃん達は平民の秀才が気に入らないわけだ。馬鹿馬鹿しいったりゃありゃしない」
「貴方も貴族じゃないですか?」
「たしかにそうだ。でもな、俺もお前と同じ、嫌われ者の類いだ」
「嫌われ者?」
青年は頷いた。
「むかーしむかし。戦友を失った気高き騎士がおりました。彼は喪失の悲しみから、悪魔と契約を交わし禁忌に手を伸ばしました。神はもちろんそれを許すことなく、騎士に罰を与えました……」
どこかで聞いた物語に記憶の引き出しを探る。青年はどこか楽しそうに、悩ましげな表情のルノーをどこか満足げに眺める。
「……うぅん……」
その時、昼休憩を知らせる鐘が鳴った。
「残念。時間切れだ。明日までに考えてくることだな」
「え、ちょっと……」
荷物を纏め、青年は部屋を出る。
「そうだ。名乗っていなかったな。グザヴィエ・デュ・レイだ。じゃあな、明日もこの場所で待っているぜ」
にやり顔を浮かべると、グザヴィエは一人部屋を去っていった。
「グザヴィエ……デュ・レイ……? あ!」
脳裏にかかった霧が晴れ、探していた言葉が鮮明に浮かぶ。慌てて倉庫を出るも、彼の姿はなかった。
明日もこの場所で待っている。
確かにそう言った。ルノーは、明日もこの場所へ来ると決意する。先ほどまでのし掛かっていた鉛のような重荷が、気づけばどこかへ消え去った。
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