第二話/無花果の葉は枯れた②【呪いの箱庭】
〈3/稲穂色の君〉
「坊ちゃん、坊ちゃん!」
ドスドスとけたたましい足音が、グザヴィエの自室に入ってくる。彼が思春期真っ盛りの青少年であることなどもお構いなしに。
「朝ですよ、今日こそ学校へ行きましょう。さあさあ支度なさって!」
開かれるカーテンから差し込む日差しと、小太りなメイドの声で目を覚ました。彼女の名をマリアム。グザヴィエがまだ赤子だった時からレイ家に使える、たった1人の使用人。
配慮という言葉の頭文字も知らぬ彼女は、ノックせず思春期の青年の寝室へと入り、覆い被さるタオルケットを引き剥がした。寝間着姿のグザヴィエは蹲り、うう、と呻き声を上げる。
「っち、うるせえな。まだ8時じゃねぇか」
「まったく、いけませんよ!今日から学校に行くのです。新学期がもうかれこれ1週間じゃないですか。毎朝御者の方がいらっしゃってるというのに」
「勝手にき来ているだけだろ、厚かましい」
「いけませんよ!今日こそ絶対に、絶対に行ってください」
一向に帰ってこないタオルケットに悪態を吐き、しぶしぶと起き上がる。眠気と戦いつつ、身支度を整え居間へと向かった。
「やあ、グザヴィエ。今日は早いな」
居間では、既に父と母がテーブルについていた。爽やかな9月の朝だというのに、生命力を感じない生温い空気。噎せ返りそうだ。
「マリアムに起こされた」
「そうか」
ゆっくりと頷き、ただ粛々と朝食を取る両親。グザヴィエも席に着き、銀のカトラリーを手に取った。変わり映えのしないメニュー、すっかり目に焼きついた光景。特に味のしない、不快な感触の食卓。
レイ家の至って普通の、何の変哲にもない日常だった。
グザヴィエは皿の半分を平らげると席を立つ。
「今日は、学校に行くから。マリアムが行けって」
「わかった。無理はしなくてもいい。好きな授業だけ受けてきなさい。途中で帰ってきても構わないよ」
「わかってるよ」
背後でマリアムのため息が聞こえる。グザヴィエの眉間に皺が寄った。
この9月からグザヴィエはフランス屈指の装幀師養成機関・ルリユール学院に入学した。彼自身や両親が望んだわけではない。フランス国が、いやアレクサンドリアがそう命じたからだ。勿論両親は拒んだ。人との過度な接触は、呪いを誘発しかねない。いくらか抵抗したらしかったが、結局は圧力に逆らえなかった。
空しいものだ。先祖代々、呪いを受けてからこうなのだ。いついかなる時でも、国は監視している。今だって。
「学校にはベルナール君やユーゴ君もいるのだろう」
「イヴも」
「なら素晴らしい。友人がいるのなら心強い。楽しんできなさい」
「はい」
出された朝食を早急に平らげ、グザヴィエは家を出る。途中マリアムに昼食を渡されるも、適当に断った。
家の外ではソバージュ社の馬車が待ち構えている。いわく、一度目の登校は必ず馬車を使うという医務不明な習わしが学院にはあるsそうだ。故に、彼は数日間毎朝待ちぼうけを食らっているのだ。
「やあ、やっと出ていらっしゃいましたか、殿下」
「はは、口が達者だな」
「いいえ。ただ言ってみたかっただけです。ご愛敬ご愛敬」
自分と同じか少し下の年齢だろうか。やけに若い御者だった。幼さの残る屈託ない笑顔は、どうにも憎めない。
「まあいい、頼んだ」
「お任せくださいよ殿下。無事、目的地までお運びいたしますよ」
「殿下はやめろ。不快だ」
「これは失礼」
御者はウインクすると、馬に鞭打った。
レイ家邸から学校まではほんの十数分。仮眠を取るには十分な時間だ。寝たり無かった分を取り返そうと軽く瞼を閉じた瞬間、よく通る御者に目を覚ます。
「そういえば、今度の入学生に一般家庭出身の生徒がいるんですよ」
へえ、と投げやりな返事をした。そういえば、イヴからそんなことを聞いた気がする。今度の代から学費不要の特待生制度が始まるだとか。ただ、基準がかなり厳しく生半可な努力では受からないという。
「俺、彼の初登校の送迎を任されたんですけど、とても綺麗な目をした方でしたよ。背丈は丁度、俺と同じくらいで、丁寧な口調で夏の花のような笑顔を浮かべながら馬車を見渡すんです。久しぶりに見ました、あんな純粋なお方」
「へえ」
「なるほど興味ないって顔をしていますね、あはは。そうだムシュー、彼に会ったら友達になってあげてくださいよ」
「は?」
「一般家庭出身に貴族の友人なんておりやしませんもの。あなたが一緒にいてくだされば、彼もきっと安心だ」
俺にそれを言っているのか。
グザヴィエは自嘲するように言った。よりによってこの見た目の自分に、あの血を引く自分に「平民の友達になってやれ」というのだ。無遠慮を差し引いても、お釣りが来るほどに愚かしい。
「俺に言っても無駄だ。顔も名前も知りやしない」
「ルノーといいます。姿はきっと、一目見れば解ることでしょう。はい、つきましたよ」
あっという間に、馬車は巨大な門の前に止まった。数世紀遅れのバロック様式で、旅行客がこぞって見にやってくる。半ば観光ね遺書とかしたこの場所がパリ=ルリユール学院だ。
「ひと目見ればわかるって……無理だろ」
「孫亜子とないですよぉ!ではでは行ってらっしゃい。また会う日まで」
グザヴィエが飛び降りるのを確認すると、御者は軽く帽子を持ち上げ、屈託なく笑うとそのまま去って行った。
一体何だったんだ、あいつは。
グザヴィエは重苦しく肩を落とすと、ポケットに手を突っ込み、のそのそと学院内に入っていった。
生まれた時こそ小さかったが、ここ2、3年、急激に図体が大きくなった。おまけに色素の抜けた髪に、赤茶と言うには鮮やかすぎる瞳をもっていると嫌でも目立つ。ものの数十歩歩いただけで、視線の視線は彼のものとなった。
ったく、好き者め。
好奇の眼差しに辟易していると、背後から何者かが此方に迫る足音が聞こえた。1つではない2、3……3人だ。この数に思い当たるものがあるグザヴィエは「げぇ、」と苦虫をかみつぶした様に顔を歪めた。
「グザヴィエ?グザヴィエだわ!やっと来たのね」
背中をどん、と叩かれた。女子の細腕から繰り出されるとは思えない怪力に、思わず咳き込む。
「痛ってぇな、イヴ。それ止めろって言ってんだろ」
「あら、淑女の挨拶を無下に仕様だなんて、紳士失格よ」
「挨拶なんかじゃねぇよこんなもの。単純な暴力だろ」
からりと笑う彼女は、イヴ・ドゥ・ザントライユ。グザヴィエの幼馴染みであり悪友のような存在だ。目力のある顔立ちと学院内の数少ない女子生徒である故か、更に周囲の視線を集める。グザヴィエの出で立ちも相まって、目立つことこの上ない。
「あんまり寄るな。もう子どもじゃ無いんだぞ、俺たち」
「ついこの前まで一人でお手洗いに行けなかった子が何を言っているの」
「うるせぇ!一体何年前の話だよ」
もう二人、見知った顔がイヴを追いかけてくる。彼らもまた、嫌というほど見知った顔だ。
「おはようグザヴィエ。てっきり来週まで登校拒否を続けると思っていたよ。あーあ負けちゃった」
「負けたって。俺で賭けでもしていたのか」
「ああ、大当たり。ちなみに俺の勝ちだ。ベルナール、今日はスイーツを奢って貰おう。カフェテリアで1番高いものを、ね」
負けた、柔和で図太そうな青年がベルナール・ド・ラファイエット。勝った方が、ユーゴ・ド・ガルニエ。彼等もまた、グザヴィエの幼馴染みである。
彼等は皆、僅か一~二歳ではあるがグザヴィエより年長だ。故に彼を弟の様に甘やかし、可愛がり、お節介を焼きたがる。決して悪い奴らではないのだが、人の形をしたありがた迷惑といった奴らなのだ。
「折角だし、一緒に校内を案内してあげる。どうせ自分のロッカーも、教室だって分からないでしょう?」
ぐい、と腕を引っ張られる。正直、痛い。
「痛ぇよ。自分で歩くから。離せ」
「いいから、いいから」
結局、逃げることもできぬまま、イヴ達と共に校内を回ることになった、校舎の内部構造を一切把握していなかったため、ありがたいと言えばありがたいのだが。もっとやり方というものがあるだろう。
「せめて離せよ。鬱陶しい」
「だめ。君は逃げるでしょう」
前後左右を囲む布陣で校内を練り歩かされるのは、流石に堪えた。我慢するのは、せいぜい30分が限界だ。
「いい加減にしろお前ら、」
「じゃあ次は東側の校舎ね」
「話聞いてんのか」
グザヴィエのため息と同時にチャイムが鳴る。やっと解放される。思わず胸を撫で下ろした。
「あら、残念。私達、次授業があるんだったわ」
「はいはい」
「大丈夫か、グザヴィエ。一人で教室行けるか」
「行けるっての」
「一緒について行かなくても平気?」
「ああもう、うるせぇな!お前らに案内されたから覚えてるよ」
そう吐き捨てると、三人は気持ちの悪い笑みを浮かべ、去っていった。
グザヴィエは悪態をつきつつ、中庭の木陰にて居眠りを試みた。勿論、もとより授業を受ける気などさらさら無い。校内引き回しに遭ったのは想定外だったが、おかげで絶好の隠れ場所をいくつか見つけることができた。
ふと、囁き越えが聞こえた。こそこそと、それでいて堂々とした耳障りな言葉たち。
「なあ、あいつだ」
「うわあ、本当に居る」
「噂の。実際に見るのは始めてだ」
無意識に舌打ちを1つ。
またか好きモノめ。
耳を塞ぐのも癪なその言葉は、グザヴィエに構うことなく続けられる。
「知ってる。首席の平民だろ」
「生意気だよな。あんなみすぼらしい格好で学園をほっつき回られたらたまったもんじゃない」
平民?
てっきり自分のことを言われていると勘違いしていたグザヴィエは、思わず顔を上げた。
瞬間、その姿が目に入った。
自分より1まわりも小柄な体躯に、さらさらと揺れる秋の稲穂色の髪。自信なさげに憂う視線の色は、わからない。
輝いている。
睡眠に入りかけていたグザヴィエの意識は瞬く間に覚醒する。それほどに、映った姿があまりにも眩しかった。
『一目見れば、直ぐに解りますよ。』
先ほどの御者の言葉が蘇る。成る程、言うとおりだ。彼は、間違いなく。
「……!」
思わず、目を逸らしてしまった。なぜか、見てはいけないものを見た気がした。罪悪感。端的な言葉で表すとしたら、人はそう呼ぶ。もう一度、彼の姿を見やろうと視線を戻すと、既にその姿はない。
授業へ行かず、探そうか。そう考えもしたが、講義へ出席した方が会える確率が高いのではないか、と思考がよぎった。
グザヴィエは迷いなく教室へと向かう。自分でも驚くほどに、脚が軽かった。数日、数週間、数ヶ月……いや、数年ぶり。速まる脈につられ、僅かに荒くなる呼吸。久しく高鳴ることのなかった心臓が、脳まで届く鼓動を打っている。
断言できる。
はじめての感情だった。
・・・
あれから、ルノーと思しき生徒の姿を何度も目撃した。教室で、廊下で、資料室で。小柄な容姿の、かつ1人で行動する彼を見つけるのは簡単だった。数週間の観察を経て、彼の行動パターンも把握することができた。
だが、それだけだ。何が好きで、どういった食べ物を好み、どんな言葉遣いで話すのかは、まだわからない。グザヴィエは、ずっとその死角から眺めていくことしかできなかった。
知りたい。ルノーのことが知りたい。
憂いを帯びた顔ではなく、屈託なく笑った笑顔が見たい。
一人俯き歩く姿ではなく、隣で前を向きながら話す横顔が見たい。
本を読む姿だけではなく、食べる姿、居眠りする姿、庭園を走り回る姿が見たい。
座学の講義を終え、深くため息を吐く。視線の先には、いそいそと板書に励むルノーの姿。もし、声をかければ振り返ってくれるのだろうか。いいや、この見た目と家柄じゃ、怖がられてしまうだろう。でも、もし。グザヴィエは頭を赤エル
ああ、自分に意思と勇気さえあれば、どれほどいいだろうか。
「おーいグザヴィエ」
「う、」
頭頂部を、ノートで軽く叩かれる。ベルナールとだった。
「昼食の時間だよ。早くしないとカフェテリアの席が埋まってしまう」
「あー……」
時計を見ると、既に授業は終わっていた。小一時間、ずっと夢想にふけっていた訳だ。我ながら絶句ものだ、とあざ笑う。
「そうか、じゃあな」
「ちょっと、」
荷物を持って立ち上がるも、間髪入れずベルナールの待ったがかかった。
「また一人で食べるつもり?まさか、食事を抜こうとしていたりしないだろうな」
「ちげーよ、お前らとつるむ気分じゃないんだ」
「知ってるさ、君がお昼ご飯を持ってきていないのはね。全く、反抗期の弟をもつと苦労するね」
やれやれ、と肩をすくめて見せるユーゴにカチンとくる。
「うるせえ!俺はもう行く、三人で仲良く飯食ってろ!」
「ああ、ならちょっと待って」
ベルナールは抱えるほどの大きさのバスケットをグザヴィエに押しつける。蓋の隙間を覗き込んでみると、そこには大量の菓子と食料がこれでもかと詰め込まれていた。強烈な甘味の風に顔が歪む。
「ちゃんと食べてるか不安でさ。それぞれ持ち寄ったんだ。食べてほしいな」
「こんな、こんな一人で食えるわけねえだろ。明らかに3人分だよ。お前ら、三人で1人分の食料作るんじゃなくて、それぞれ一人分持ち寄ったろ。馬鹿じゃねぇの」
「食べてくれるよね、グザヴィエ?」
軽く首を傾げ、上目遣いに微笑むベルナール。彼は、こう笑えば弟が言うことを聞くのだと熟知しているのだ。
受け取ったバスケットを押し返せず、グザヴィエは荷物をまとめ、歩き出した。
「仕方ねぇな適当に豚にやってきてやる」
「本当?よかった」
「お前俺の言ったこと聞いてたか」
不気味なほどににこやかなベルナール達に見送られ、グザヴィエは教室を出る。と言っても、行く当てがあるわけではない。ふらふらと校内を徘徊するだけだ。
楽しそうに笑う学生の声、燦々と降り注ぐ秋初めの太陽。やけに晴れやかで陰鬱な景色が目に痛い。しかも今日はやけにかわいらしいバスケットを持たされているからだろうか。普段以上に視線が刺さる。今すぐにでも捨ててしまいたかったが、胸の奥に存在する心ばかりの良心が、それを許さなかった。
仕方が無い。
グザヴィエは、人目を避けるように旧校舎へ滑り込む。以前イヴたちに校内を引き回されたときに発見した、隠れ場所候補の一つだ。
旧校舎は、かつてこの学院がまだ田舎にある新たな学び舎だったときに建造された建物だ。現在のように百人あまりを収容できる教室があるはずもなく、最大収容人数は30人ほど。そんな規模の教室が5つあまり、実習室が二〜三、図書案と呼ぶにはあまりに粗末で雑多な倉庫が一つ。
照明の殆どが壊れており、まともな掃除一つされていないことから、名門学園の一角にあるまじき退廃を醸し出している。そのせいか、この場所にやってくる生徒は殆どいない。執拗な視線から身を隠し、体を休めるのにはうってつけだった。
グザヴィエはその中の一室、教材倉庫室へと足を運んだ。この場所は他の教室に比べ狭く、物が雑多に並べてある。一言で言えば散らかった部屋だ。だがこの散らかり具合が、実に心地いいのだ。
「……はあ、しんどい」
バスケットをテーブルに置き、窓辺のチェストに腰かける。薄いレースカーテンの隙間から、外の景色を垣間見た。太陽の下、思い思いに青春を謳歌する青年たちを横目に眉間に皺を作る。
ああ、忌々しい。
顔を歪めたその時だった。ガチャリ、ドアが開く。
誰か来た。
グザヴィエは反射的に息を潜め様子を伺う。他の生徒ならば追い払えばいいが、学院職員だと面倒だ。不法侵入をと追い出され、最悪家の方に連絡が行く。どうするべきかと頭を悩ませたが、幸い、向こうはこちらに気づいて居ないようだった。しかも、レース越しに見える背格好から学生らしい。ならば、先手必勝。語気を強めて脅かせば、きっと退散するだろう。
すぅ、と息を吸い、わざと低く怒ったような口調で言う。
「誰だ」
そう言った。同時に小さな悲鳴が聞こえる。
「……!」
窓から、一陣の風が滑り込む。ふわりとレースカーテンが膨らんだ瞬間、グザヴィエは目を丸くした。稲穂色の髪に小柄な体躯。そして、どこか自信なさげないでたち。
全身に、電流が走った。
紛れもなく、そこに立っていたのは、ルノー・パンスロンだった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、怯えた表情で立っている。
どくり、と耳障りな脈拍が真空に思える空気の中、グザヴィエを狂わせる。
「あ……」
ああ、運命だ。
グザヴィエの右腕は、そっと彼の元に伸びていった。
これが彼との出会いだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?