Ep5/ある用心棒の日常【カルペ・デュエム・トラジコメディア】
「てめえふざけんなよ!」
「やる気かクソが!」
喧騒と嬌声に溢れた愉快なスピークイージーは、突如闘志の舞台へと変化した。どうやら労働上がりの男達の軽いジョークの言い合いが、棘のある言葉での殴り合いに発展したらしい。両者とも体格のいい、脂ののった年齢だ。胸ぐらをつかみ合う腕に浮かぶ血管が、二人の脳にすっかり血が上っていることを物語っていた。
静寂の中、にらみ合いが始まる。しばし牽制し合う状態が続いたが、ついに片方が拳を振り上げた。相手方もそれを見落とすはずがなく、ほぼ同時に右フックを繰り出す。途端、歓声という名のゴングが鳴り響き、二人の戦いは始まった。
両者とも相手の技を躱し、時には受けながら、高ぶりきった怒りを存分に振るう。勿論周囲の客は突如始まった見世物に熱狂した。ヤジを飛ばすわ口笛を吹くわ、その有様はリングを囲む観客のそれだ。
「やめろ!どけ!僕の舞台に近づくな!」
つい先ほどまで舞台で演奏を披露していたバルトは叫ぶ。格闘をより近くで見ようと壇上に登る客に怒鳴りつけているようだ。
「店長、店長!……オレル・ドゥメルグ!なんとかしろ貴様、責任者だろ!」
バルトが鋭い視線をカウンターへ向けると、盆を盾のように抱え縮こまるオレルの姿があった。完全に萎縮している。少し離れた場所には、椅子に腰かけ寝息を立てるイヴァンの姿が見えた。今は騒ぎの中でも眠れる彼が羨ましい。
「馬鹿者が!店を守れ!」
呆れを帯びた怒りに、オレルは反論する。
「止めに入れってか!?それこそ死んじまう!」
二人が言い合う間にも、男たちは店の中で暴れ回る。グラスが幾つも割れ、椅子が倒れ、テーブルクロスには靴底の後がつく。まさに混沌の渦の中だ。
これからどうする。オレルとバルトが考えた瞬間、店に重々しい打撃音が響く。う、と短い呻き声と共に、片方の男は床に倒れた。
「邪魔すんなクソアマ!ゴブッ……」
まもなくもう片方も沈められる。店内は静寂に包まれた。唖然とする客達の視線は、一人の女性に向けられている。
「『トラジコメディア』では喧嘩は御法度。破ったなら制裁が下るの。知らなかった、お馬鹿さんたち」
「ウルリカ!」
バルトは歓喜の声を上げる。
ウルリカ・ヴァーン。銀の拳を持つ、トラジコメディアの用心棒だ。ウルリカは侮蔑を含んだ視線で床の男達を見下ろし、ため息を吐く。
「私が少し休憩している間にこのザマ。全く、しっかりしてよね店長」
「あはははは……今回はその、仕方ないというか、自然発生と言うか……」
オレルの言い訳がましい弁明には耳をかざず、ウルリカは自身の定位置、店の出入り口の椅子に腰かけた。
客達は魚を取り逃がした子どものように落胆し、各々自身の席へと戻っていく。中には、騒動が落ち着いたことにほっと胸をなで下ろす者もいた。がやついた店内は、バルトのピアノが再開した事により、もとの『トラジコメディア』へと戻って行った。
だが、それに不満を持つ者がまだ2名ほど。KOを食らった、荒くれ者たちだった。両者とも、ほぼ同時に目を覚まし、自身の身に起こったことを理解する。
そうだ、あのクソ女に止められたのだ。
再び煮上がり始めた怒りの熱に身を任せ、立ち上がる。目指すは、壁際ですまし顔で佇む用心棒。あの面に一発打ち込めば、どれだけ清々しいだろう。
ウルリカが顔を上げると、目の前に青痣まみれの男が二人、見下ろして立っていた。
「おい。そこの女」
「……ん」
「ん、じゃねぇよ。手前ぇさっき、」
どん、と3,4度目の重い打撃によって、男達の口は塞がれた。
・・・
朝日が昇り始める。小さな窓の隙間から、麗らかな陽が差し込み新たな一日の始まりを告げる。バルトの奏でる気まぐれな旋律に身を委ねながら、ウルリカは肉入り豆スープを噛みしめた。
騒動は落ち着いたといえど、店の中はまるで嵐が過ぎ去ったような有様だった。床に散らばったグラスの破片を丁寧に片付けるオレルの姿を、じっと見つめる。
「どうしたんだウルリカちゃん。俺の顔になにか付いてる」
「ううん。見てるだけ。馬鹿だなーて」
「厳しいねぇ」
だらしなく笑うオレルは「グラスを買い足さなきゃなぁ」と口を零す。ならば、喧嘩を止める努力をすればいいのに、と心の中で毒づいた。
「ウルリカ!今日こそ一曲」
「嫌」
バルトの誘いをはたき返す。ウルリカは手元の食器を片付け、そそくさと去って行った。その様子を、男達はぽかんと口を開け眺めているだけだった。
店を出て直ぐ降り注ぐ、眩しすぎる日差しに目を細める。ああ、この光はいつになっても慣れない。幼い頃からそうだ。好みに宿る獣の性質がそうさせるのか、それとも今だ心を焦がすあの朝からくるのか。考えるのも嫌だった。
早朝のエカムは、道に人が落ちている。泥酔した男に、棄てられた女。はたまた面影を失った死体まで。まるで地獄だ、と毎度眉をひそめる。だが、彼等に手を差し伸べてやるほどの優しさも、この状況を打破する金銭も持ち合わせていない。申し訳程度の罪悪感を振り払い、家路を急いだ。
ウルリカの家があるイーストサイドはトラジコメディアのある中央街からほど近い場所に存在する。海と線路が近く、ゲヘナと揶揄されるこの街の中でも、比較的活気のある地区だ。
商店街までやってくると、既に並びの店は開店作業を始めていた。通気口から重く昇る湯気、せっせと拭かれる窓の音。毎朝毎朝よくやるものだ、と感心しつつ家路を急ぐ。
「お嬢さんお嬢さん!」
肩をぽんと叩かれた。誰だ、と思わず警戒の姿勢で振り向いた。底に立っていたのは、四〇代半ばであろう、ほっそりとした……いいや、頬の痩せこけた女性だった。もちろん、知り合いではない。
「誰」
「そこのパン屋だよ。そして、昨晩お嬢さんがシバいた馬鹿の家内さ」
はつらつとした笑顔に、張り巡らされた緊張がほぐれる。
「何か用で、」
言い終わる前に、抱えるほどの大きさの紙袋を抱かせられる。香ばしいバターの匂いがふわりと漂った。
「迷惑をかけた詫びだと思って受け取ってくれないかい」
「結構です。私は仕事をしたまでで」
「お嬢さんのお陰で、暴れ癖のあった旦那が大人しくなったんだよ。これでしばらくは快適さ、ははは!」
豪快に笑う彼女の頬には、痛々しい痣が幾つもあった。合点がいったウルリカは、彼女の行為をありがたく頂戴することを決める。
「そうか……じゃあ、貰っておく。今度は、友人と一緒に」
「あああ、待っているよ!」
大きく手を振るパン屋に見送られ、ウルリカは踵を返す。薄いクラフト紙越しの穏やかな熱にが熱くなる。ゴミにまみれた歩道を駆け抜け、温かな我が家へと急いだ。
ウルリカの家は、商店街のメインストリートから少し外れた細い路地の中にある。法に触れる商売屋が多く立ち並ぶこの場所は、お世辞にも治安が良いと言えなかった。
相戸待ったのは、一軒の精肉店。『メラーニア』と掲げられたそこも、例に漏れず開店準備が始まっていた。正面玄関のドアノブを握るが、鍵がかかっている。じっと店の奥を見つめていると、従業員の一人が慌ててやってきた。従業員の一人、ウォルトだ。
「おかえりなさい、ウルリカ嬢。気づかなくてすみません」
「いいの。そうだ、良いものもらったから、ほら。後で上に食べに来て」
「おや、いいのですか。ではご馳走になります!」
ウォルトがにこりと笑うのを見届けると、ウルリカは店の端に備え作られた階段を駆け上がる。この建物は一階が商店と従業員の控え室。二階がウルリカとこの店の主フィリッパの住居だ。
「ただいま」
「やあ、お帰り。なんだい。素敵なお土産を持っているじゃないか」
エプロンをつけたフィリッパが微笑む。大嫌いな朝日が、逆光となり彼女を照らす。一日の終わりが最高に締めくくられた。
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