第四話/獅子の心臓⑥【ペンドラゴンの騎士】
六章/暁
一九二〇年、九月。穏やかな潮風の吹くその日、テンビー=ペンドラゴン城の前にはロンドン行きの馬車が停まっていた。
その乗客であるリュザールは、未だ自室の中。伸びた髪に、しっかりと香油を馴染ませている。あの日から伸ばしていた髪は腰まで届き、分隊の誰よりも艶やかな光沢を持つ。ここまで美しくなったのは、洒落もの好きのトレイシーに、毎日のように櫛で整えられていたおかげだろう。
机の上に並べられた整髪道具を丁寧に纏めると、真新しいスーツケースにしまい込んだ。トレーシーからは、整髪料一式、クレイグからはスコーンの作り方のメモ。そのほかに選別が沢山、鞄には詰まっている。
彼にこの部屋があてがわれて数年、半月前まで雑多としていた自室はすっかりと片付いた。残っているのはベッドと机、古いチェストなど大きめの家具。いつか、次にこの部屋を使う住人が現れてもいいように、簡単な生活用品も買い足して残してある。
他は全て処分してしまい、今残った彼の私物は今や、入り口に置いてある鞄二つ分だけ。我ながら、綺麗に纏めたものだ。
一息つき窓の外を眺めた。綺麗な海だ。
ぼうっと呆けていると、扉の向こうから声がした。
「リューザル。馬車の準備ができたぞ。入っていいか」
ダニエルだった。返事をすると、彼は部屋に入る。レンズ越しの瞳はすっかりと片付いてしまった部屋を見渡すと、一瞬寂しがな表情を見せた。それを振り払うようにリュザールの元へ歩み寄ると、僅かに崩れた彼の襟元を整えた。彼のこぼしたため息は、決して呆れの混じったものではない。
「随分、立派になったな。あんなに小さかったのに」
「ふふふ。もうダニエルよりも大きいからね」
リュザールは椅子を立つと、ダニエルを見下ろした。数年前まで見上げていた兄貴分の顔は、もう頭一つ分下にある。たった数年でこんなにも伸びるとは、リュザール自身も予想していなかった。
「別に、俺も特別小柄ではないはずだが。君と並ぶと、小さくなった気持ちになる……にしても、相変わらずよく似合うな、その耳飾り」
黒髪の中に、ダニエルのタコまみれの手が触れた。リュザールの耳に下がる、黄金色の大ぶりな耳飾り。かつてアサドが身につけていたものを、形見として譲って貰ったのだ。片方ダニエルに譲ろうとしたが「折角君の肌によく似合う代物なんだ。二つ揃いで着けないと勿体ない」「それに俺はあまり金色が似合わないからな」と、半ば強引に押しつけられたものだ。
今思えば、彼は身につけたくても身につけられなかったのだろう。名残惜しげに触れる手が、その証拠だ。
「よく似合っている」
「でも、一番似合うのはアサドだよ」
ああ、違いない。彼は微笑むと、寂しげに言った。
「ついに、行ってしまうのか。リュザール」
「うん。決めたんだ。僕はアサドみたいな騎士になるから」
彼みたいな、光のような騎士に。
アサドが天国へ旅立った翌日、リュザールは騎士となることを決めた。以前から心の中で決め手はいたものの、なかなか決心がつかないでいたのだ。分隊の騎士達は皆、歓迎し激励の言葉を贈ってくれたが、ダニエルだけは別だった。
「騎士になんてなるな。もう誰も失いたくない」
あの戦争の爪痕が、彼の胸に刻まれていたのだ。口論が高じて、いくらか口を聞かなくなることもあった。結局、周囲の仲裁と曲がらないリュザールの意思によって、ダニエルは折れることになったのだ。
「一皮剥けて、必ず戻ってくるから!」
「そうか、うん。君が自分で決めて、自らの道を歩むことは、大変喜ばしい。先の道を征く騎士としても、大変喜ばしい」
「何を言ってるんだ。散々反対していたくせに」
もう終わったんだ。その話はよしてくれ。
ダニエルは、僅かに目を緩ませる。
「だが正直君がロンドンに向かうのは……少々寂しいな」
「本当、寂しがり屋だよね、ダニエルは。ちゃんと毎月、手紙を書くから安心して」
「ち、違う! 俺は君の身を案じているだけだ! 君は時折ぼうっと呆けることがあるだろう。そのうちアサドのように道に迷ってしまうかも知れないじゃないか」
顔を赤くしなんとか弁明を試みるアサドを黙らせるように、短く抱きしめた。
「ありがとう」
ダニエルは一瞬黙りこみ、広くなった小さなリュザールの背をポンと叩く。
「まったく、変なところまで彼奴と似てきたな」
「そう? 光栄だなぁ」
「あんまり喜ぶなよ」
クスクスと微笑ののち、静寂が葉を包む。まるで、その時がきたことを空気が知らせているようで、リュザールは目を伏せた。それだ、ダニエルも同じなようだった。
「もうこの部屋に心残りはないか」
「うん、行くよ。待っていて。荷物、取ってくるから」
二人は、館の廊下を歩く。テンビー=ペンドラゴン騎士団の皆は今日も忙しない。短い挨拶を交わしては通り過ぎ、また一人挨拶に通り過ぎる。その繰り返しだ。
長い長い廊下、いつまでも終わってほしくないという願いがひしひしと伝わる。そして、迎えの馬車の前についたとき、リュザールはダニエルの方へと向き直った。
「ダニー。最後に少しお願いがあるんだけど」
彼は、寂しげに微笑む。
「俺にできることなら。何でも行ってみなさい」
「アサドにお別れさせて」
ダニエルは一瞬顔を曇らせるが、小さく頷くと、たすき状のベルトを外し身につけていた一冊の本を差し出した。
魔書『黄金の獅子』。黄金の刺繍とガーネットが施された、アサドの体によって作られた魔書だ。彼は魔書になった自分の所持者として、ダニエルを指名する旨を遺書に書き残していたらしい。魔書の携帯は外出任務中だけでいいと規則で決まってはいるものの、彼は一日中、肌身離さず身につけている。
「いつ見ても、綺麗な魔書だ」
「当たり前さ。アサドなんだから」
滑らかな滑らかな拍子を一撫ですると、心の中で、カチリと何かがはまる音がした。整理がついた、そんな感覚だ。リュザールは魔書に呟いた。
「行ってくる」
気をつけていくんだよ。
どこか遠くでにっこりと笑う彼の姿が、見えた気がした。
「ありがとう、ダニー。絶対手紙書くから」
「ああ、適当に期待して待っているよ。ほどほどにな」
「うん、ほどほどに」
リュザールは馬車に乗り、徐々に遠くなるダニエル、そして故郷を眺める。色とりどりの愛らしい家々が少しずつ遠くなっていった。
一抹の寂しさに浮かんでいると、鼻歌交じりに御者が言った。
「先ほどの騎士殿、仲良しでらっしゃるんですね。まるでご兄弟のようだ」
「……でしょう。自慢の兄さん達です」
「たち?」
「はい、兄さんたちです」
御者は不思議そうに首をかしげると「そうですか」と能天気にいい、鞭を一つ打った。
車輪は周り、ロンドンへと向かう。延々との見る轍を、リュザールの兄たちは、静かに見つめていた。
・・・
暗い城の中に、数名の騎士。彼等が掲げるのは、ペンドラゴンの最大戦力・前衛騎士(カタストロフ)の紋章。その中に、ひときわ美しい髪の青年がいた。暗闇の中でも分かる艶やかな黒髪に、褐色の肌を際立たせる黄金の耳飾り。身の丈ほどある大きな得物を担ぎ、周囲を散策する姿は、荒野を歩く獅子を連想させた。
彼の元に、同じくらいの年頃の騎士が駈け寄る。耳まで伸ばした柔らかな髪に、ぱっちりとした青い目が特徴的だ。胸元の紋章から、医療騎士団(カデュケウス)だとわかる。彼らは共に、この城の調査にやってきたロンドン=ペンドラゴン騎士団であった。
「リュザール、そっちは大丈夫か……って、なんだその口元」
魔力式洋灯に照らされたリュザールの口元は、赤い血糊でべっとりと汚れていた。何を食ったか、医療騎士の青年は察する。
「まさか……上官に許可は貰ってるんだろうな?」
「ああ、大丈夫。疲れたから少し食べてきた。ごめん。驚かせたかな」
「ほら、口を拭いなよ。俺はいいけど、生存者が見たら腰抜かすぞ」
そう言って青い目の騎士はリュザールにハンカチを押しつけた。されるがまま、ゴシゴシと血を拭われる。
「痛い、痛いってジェフ」
「ちょっと血が乾いてる。すぐに拭かなかったのが悪いんだぞ」
まるでダニエルのようだ。心の中で、ふと呟く。
騎士学校を出たリュザールは、その才を買われ本部ロンドン配属の前衛騎士となった。騎士団において獣の病〈アガルクトニ〉が希少であるというのが主な理由だった。テンビーに戻ってくると信じて疑わなかったダニエルを説き伏せることに苦労したのは、言うまでも無い。
「はい拭けた」
「うぅん、どうも」
「予備のハンカチ渡しとくな。それにしても、こんな現場。今回で三回目だ。もう偶然じゃ片付けられない」
はぁ。と、柔らかな栗色の髪が揺れた。
何者かによる、辺境の一族の惨殺事件。リュザールが遭ったそれと告示した事件が、ここ一年、三度も起きている。当時の犯人たちの大方は捕縛されたが、まだ残党がいるのではないかというのが騎士団の考えだが、それ以上の何かが動いているような気がしてならない。いや、動いている。リュザールの獣の勘は確信していた。
「まだ見ていないところは?」
「地下」
「地下かぁ。あの位扉のところか。にしても、酷い有様だな。一族郎党皆殺しにされている。小さな子どもの亡骸は、いつ見ても悲しくなるさ」
道の傍にて寄せられた、布のかけられた小さなそれに、医療騎士は短く祈る。
「正直、この事件どう思う」
「ああ。もうこれは組織的犯行だよ。怨恨の類じゃない。なんらかの共通点が、彼らを破滅に導いている」
「それが、わからない……と」
「調査騎士団もお手上げだそうだ。あのホームズさんすら頭を抱えている」
「本当? 相当だね、この事件。まあ、きっと僕たちが捜査に首を突っ込んでも何も解決しないんだろうね」
「それはそう。歯痒いよ」
二人は並び、再び暗い城の道を歩み始めた。広大な敷地を他の騎士と手分けして探しているものの、やは李というべきか、自分達の生の音以外何も聞こえない。静まり返るアーチ天井は、哀愁をこだまさせる。
「……生存者はなし、か。皆亡くなっている。医師の端くれとして気が滅入るよ」
「僕も。残党狩りすらできないのはむずむずする」
血濡れた廊下を歩くと、目的地であるいかにも怪しげな扉を見つけた。魔術や鈍器で鍵を壊そうとした形跡が見られたが、どうやら失敗に終わっているようだった。
「うわ、開けられそう?」
「うん、行けそう。僕がやる」
この扉は絡繰にして紛い物、ダミーだ。扉そのものが巨大な絡繰だ。これを壊そうとしても、意味がない。リュザールは髪を留めていたピンを抜き、鍵穴に差す。南京錠の鍵開けなど、アガルクトニの前にしては玩具同然だ。
もうすぐ扉が開く。そのタイミングで背後から声がかかった
「おーい、ジェフ! 生存者だ。こっち来て」
別の騎士が、背後からそう呼んだ。
「本当か! ごめん、俺行くよ。一人で大丈夫か」
二人が視線を向ける先には、地下まで続く階段がある。リュザールは息を吞んだ。
「ああ。複数人のほうが、むしろ危険かも知れない」
「何かあったらいつでも呼べよ」
分かっている。
そう言うと、リュザールはぬらりと光沢を帯びる黒い石の階段を降りはじめた。長さはそれほどでもない。ものの数分で最下層まで辿り着いた。そこは、檻の並ぶ刑務所のような空間。生臭い死臭が漂うそこは、決して長居できる場所ではない。手短に済ませようとリュザールは歩き出した。
確か、自分が閉じ込められていたのも、こんな部屋だった気がする。もう十年以上前のことで、記憶はぼんやりとしてはいるが、こんな場所でアサドと出会った、そして自由になった。
ああ、懐かしい。
目の潤む回想に耽っていると、遠い一箇所に、小さな明かりが着いているのに気がついた。か細い蝋燭のような光。
「生存者……!」
近づくと、鉄格子の中に人影が一つ。
『……だれ』
「!」
リュザールが駆けつけた底にいたのは、まだ幼い、少年とも少女ともつかない小さな存在だった。粗末な服を着せられ、怯えた表情でこちらを見ている。黒々とした瞳に生気はなく、ただ、絡繰人形のように震えていた。
『怖い』
『助けて』
『誰』
頭の中に、次々と怯えた声が入ってきた。
ああ、そうか。この子もまた。
かつての自分と同じだ。
生きながらにしてものとして扱われ、丁寧に丁寧に飼い殺された、人権を奪われた存在。ろくに喋ることもできず、拒絶と渇望を繰り返した歪な生きる願望そのもの。
リュザール小さく息を吸い、目を閉じた。
『僕も、君と同じだよ。だから、怖がらないで』
『嫌、来ないで』
『ああ、そうだ。怖いね。でも、どうか信じて欲しい。僕は君を迎えに来たんだ』
迎えに。
もう一度、黄金色の瞳を開くと。幼い顔つきが動揺と喜びを同時に移す。
『僕はリュザール。英国守護機関ペンドラゴン十三騎士団、前衛騎士リュザールだ』
その暖かな黄金色の微笑みは、この瞬間、新たな太陽となった。
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