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第三話/修繕師グレシャムの復讐⑤【ペンドラゴンの騎士】

五章/貴方を信じる、だからこそ


 その日、イーストエンドに風変わりな来訪者が訪れた。足首まである長いコートと落ち着来ながらも凝った意匠の杖。下町ではどうしても浮いてしまう、古き良き気品を感じさせる出で立ちだ。

 普通なら悪漢達が彼を強盗の標的にしようと目論むだろうが、彼の胸に輝くバッジはそれを阻止していた。赤い竜の紋章、即ち、ペンドラゴン十三騎士団である証だ。

 すらりと歩みを進める彼は、通りすがりの肉屋の女将に話しかける。

「ご婦人、少々道をお伺いしてもよろしいでしょうか。私、この町に不慣れでして」

「あ、ああ、騎士様か。その様子じゃ非番だね。なんだい、言ってみな」

「とある修繕工房を探しておりまして。地図はあるのですが」

 突然現れた男に驚きながらも、女将は地図と道を交互に指差す。

「感謝いたします。用事が済みましたら、後ほど店に立ちよさらせて頂きますね」

 山高帽を軽く持ち上げ、隠れていた目元を光に当てる。凜とした騎士らしい素顔に、まぁ、と女将は頬を染める。

「なんだ、いい男じゃないか。顔を隠さず歩けばいいものを」

「私の顔を見つけると途端に逃げる輩がいるので。では」

 騎士は別れを告げると、軽やかに地図の方へと歩いて行ってしまった。

 彼は道を進み、とある小さな一軒家へと向かう。半年程前来たときは、随分と陰鬱な出で立ちだったのが、やけに明るい印象へと変わっている。どうやら、ペンキを塗り替えたらしい。ふと見上げれば『グレシャム工房』とか真新しい看板も掲げられていた。以前は表札のような小さな板だったはずだ。

 一体、この家に何があったのだろうか。

 騎士はその真相を確かめるため、扉をノックする。しばらくの間を置いて、目を輝かせた女性、アガサが顔を出す。

「ブリック教官! お久しぶりです」

「ああ、アガサ・グレシャム。貴殿も元気そうで何よりだ」

「先生も。顔色がよろしいようで何よりです」

 ブリック・マシューは、ふと彼女の身なりが目についた。最後の面談の日には、着古した、世辞すら出ない貧相な装いをしていたが、今はきちんと身なりを整えている。死人と見紛う顔色も、すっかり血色を取り戻していた。

「どうやら、ちゃんと食事を摂るようになったようだな」

 アガサがほんのりと頬を染める。

「ええ、彼女が来てから色々ありまして。お話ししたいことが山ほどあるのですが……お寒いでしょう、まずは中へどうぞ」

 マシューはコートを脱ぐと、軽く礼をして家へと足を踏み入れた。同時に、切れ長で凜々し目が丸くなる。つい数ヶ月前訪れたときにはゴミ屋敷同然だったグレシャム家が、見違えるほど綺麗になっているのだ。建物そのものの古さは余り変わらないが、きちんと手入れが行き届いている。

「ようやく片付けを覚えたのか」

「そうだと私も嬉しいのですけど、全部彼女のお陰なんです」

 ほう、と尋ねると、アガサはマシューを工房へと通し、嬉々として話し出した。

 パメラが来てから、この家を掃除する術を学んだこと、幼いころから経営を見てきた彼女とともに、工房の運営について悩んだこと。家の中を掃除したこと。そして、自分を守ってくれたことも。

「彼女は、何も言えない私に代わっていっぱい戦ってくれたんです」

「戦い、それはどのような」

「そうですね、また今度お話します。ふふふ」

 家の戸口から、騒がしい声がした。どうやら、外出していたヘイデンとパメラが帰宅したようだ。二人は何やら話し合いながら、ドタドタと廊下を歩く。

「だって、パメラさんに似合うと思ったんですよ!」

「まったく、不要物の購入は避けるようにと言いましたよね。先が思いやられます。アガサさんを助けるんでしょう」

「でも綺麗でしょ、似合いますよきっと!」

 工房の出入り口に、ふいとそっぽを向いたパメラと、彼女へ必死に髪飾りを贈ろうとするヘイデンが見えた。暢気なものだ、と見つめていると、パメラの大きな瞳と目が合った。するとたちまち威嚇する子猫のようにいぶかしげに睨みつけられる。

「あ、ブリック教官!」

 本来失礼極まりない表情を向けるパメラに対しても、マシューは顔色一つ変えない。

「パメラ・マクィーン。あからさまに嫌そうな顔をするのは止めなさい。減点対象にはしないが、いささか気分が悪い」

「だろうと思ってやっているんです。やな気分になってください」

 その言葉に、アガサは嬉しそうに「あら、」と目を輝かせた。何故そんなに喜ぶのだと疑問を感じながらも、マシューはパメラを窘める。

「行きなさい。今私はアガサ・グレシャムと話している最中だ。仕事なんだ仕事」

「はぁい」

 パメラは不満そうに出て行った。去り際に、しっかりとヘイデンから髪飾りを受け取っていたのが見える。

 何だ、別に満更でも無いんじゃないか。

 それはアガサも同じようで、二人の影をちょんちょんと指さす。

「ふふふ、二人はなんだかんだで仲良しで。こちらも安心しています。でも先生とはそうではないみたい。彼女、いつも学校ではああなんですか?」

「気に入らないことがあると、直ぐ人に突っかかる気質がある。だが成績だけは優秀だ。それになぜか、私に噛みつくのは彼女だけじゃない。他の生徒もああして嫌そうな顔をする。一体何故だろうか」

「もしかして、先生の愛想が悪いからじゃないですか。表情が鏡合わせになって、眉間に皺が寄ってしまうんですよ、きっと」

 アガサは、きゅっと眉間に皺を寄せて言った。

「まったく……」

 アカデミー時代から変わらない。そう言ってやりたいのだが、ふと本来の目的を思い出した。今日は教師と教え子ではなく、アカデミーと委任先として話をしに来たのだ。

 マシューは書類を取り出すと、一部をアガサに手渡した。硬い紙製のファイルには、ペンドラゴン騎士団の紋章が丁寧に箔押しされてある。

「雑談はこれくらいにして、パメラ・マクィーンの実務成績についての評価を」

「ああ、もうそんな時期ですか」

 気がつけば、実務訓練終了まで残り一週間となっていた。この総合評価を提出するのが受け入れ側として最後の仕事になる。

「どうやら、パメラ・マクィーンは貴殿のお陰で大きく変わったらしい。毎週提出される日誌の内容が徐々に変わってきているのがわかる。君は彼女の持つ固定観念や価値観を見事に打ち砕いたようだ」

「いいえ、変わったのは私の方ですよ。一回りも歳が違うのに、こんなにも……救われている」

 箔押しを名残惜しげに撫でる指先が、その言葉が真実であることを裏付けていた。

「……やはり、貴殿の元に送ったのは正解だったようだな。弟君のことも、一時はどうなることやらと思っていたが。アガサ・グレシャム。よければ一つ提案がある」

 どうだろうかこのまま彼女を受け入れるつもりはないか。

 マシューの口から発せられたこの言葉は、アガサにとって既に予想のついていた言葉だった。

「実務訓練先と訓練生の間ではそのまま就職、というのはよくある例だ。あの調子なら、きっと彼女も喜んで来るだろう」

「ええ、きっと。そうでしょう」

 アガサは、にっこりと微笑んだ。貼り付けたような、ぎこちない笑みを。
「そのことについて、少し相談が」

 そうして、小さく彼女は言った。マシューは耳にした言葉に、思考を止めるのだった。

・・・

 この夜、グレシャム家では小さな晩餐会が開かれた。冷たい豆の缶詰と硬いパンだけの食卓ではない。スパイスの利いた温かなスープによく焼けたトマト。そして大皿に載った肉を食していた。このたった2ヶ月で工房での作業環境も改善し、アガサの行っていた分冊作業の収入が数倍まで跳ね上がった。

「久しぶりね、こんなに大きなお肉」

 そうはいっても、皿の上に乗っているのはベーコンだ。しかも厚さは一センチにも満たない。

「罪悪感すら感じるよ。僕がこんなの食べていいのかな」

「いいんです! 時にはこうして、ご褒美を設けるのも仕事の一環です。日本では『賞与』という形で制度化もされているのですよ。戦時下にこんなモノを食べるのは気が引けますが、まだ配給が始まるほどではないと聞きますし、今日限りと言うことでヨシとしましょうよ」

「そうなのね。ふふ、じゃあいただきます」

 その日の夕食は今までで一番の賑わいだった。酒も入り、まるで柔らかな綿に包まれたような気分になる。他愛無い話で笑い、歌い、程よい酩酊の中を気ままに彷徨った。ヘイデンは酒が弱いからと、食事後直ぐに席を外してしまったが。

 二人分のグラスをテーブルに置き、パメラとアガサはダイニングからと夜空を眺める。今日は珍しく、雲の少ない空だった。薄い靄の間から、幾つかの星が瞬いて見える。アガサは自身の肩に身を寄せる少女に、静かに問うた。

「綺麗ね……パメラさんは星は好き?」

「はい。昔、叔父さんの船の上で家族で寝転んで眺めたことがあって、それからずっと。アガサさんも?」

「ええ。星を見ている間は熱中できるもの」

 暫く、二人の間に沈黙が流れる。もう一度、口を開いたのはアガサだった。

「ねえ……パメラさん。きっと、貴方は素晴らしい人になるわ」

「当たり前ですよ。私を誰だと思っているんですか」

「ふふ、私の可愛い……お弟子さん」

 とろける水飴のような、一言だった。ふと、アガサの顔を見てみると、真っ赤に染まっている。普段このようなことを軽々しく言うような女性ではない。もしや、と思いテーブルに視線を向けると、知らないワイン瓶が一本開けられている。

「酔っているんですか。まったく、お酒はほどほどにって言ったじゃないですか」

「自分への『賞与』よ。ふふ、またこうしてお酒を飲む日がやってくるなんて、思わなかった。おいしいわ、ありがとう」

「これからきっと、沢山飲めるようになりますよ。戦争も終わって、沢山魔書も売れるようになったら」

「そうね。私が頑張らなくっちゃ……ねえパメラさん、貴方は何がしたい?」

「うぅん。沢山ありますね。修繕の仕事も好きだしやりたいですけど、沢山起業とコネクションを作って家業を大きくして、それから……」

 ワインを一口だけ口に含むと、パメラは紅潮した頬でにこにこと語る。

「貴方と、オープンテープを切りたい」

「そうなの……」

「実現、しましょうね」

 ね、と念を押すような一言に、アガサは首を縦には降らなかった。

「素晴らしいわ。とっても、とっても素晴らしい」

 そうですかぁ、ととろけるような瞬きをするパメラの髪を、アガサは静かに撫でた。

「貴方の進み道が、明るくありますように」

 私は、願っているわ。

 そう呟いた頃には、二人の瞼はとうに落ちきっていた。

 星空の見守る中微睡についた修繕士たちは、翌朝、目覚めの声に覚醒する時まで、ずっと身を寄せ合っていた。

・・・

 翌日、時刻が午前九時を回った頃。

 工房の玄関には、支度を整えたパメラと、それを見送ろうとするグレシャム姉弟が立っていた。アガサの手には小さなブーケがあり、それを静かに愛弟子へと手渡す。

「……ついに行ってしまうのね、寂しくなってしまうわ」

「パメラさん。二ヶ月間、本当にお疲れ様!」

「まるで今生の別れのような顔をしないでくださいアガサさん。これから、これから始まるんですから。そういえば、来週必要な食料の確認はしましたか?」

 まるで、パメラはその時が来るのを拒むように会話をつなげる。早くこの場から立ち去らせねば、と言う心と、ずっといて欲しいという心が、交互に大きくなる。

 だがアガサはその胸中を読むかのように、小さな背を押した。

「……楽しかったわ、パメラさん。学校での残り期間、踏ん張ってね」

「僕はいつでも待っていますから! 今度こそ、中心街の案内もしてくださいね」

「分かりました。前向きに考えておきますね」

 パメラは名残惜しげな笑みを浮かべると、「じゃあ!」と手を振った。

 たん、と段差を飛び降り数歩、足を進める。だが直ぐに立ち止まり、考えるような仕草をすると踵を返し振り返る。

「アガサさん!」

 声を張り上げるように、少女は言った。

「は、はぁい?」

「私、最初はこのグレシャム技法のこと、あんまり好きじゃありませんでした。ここの工房で訓練を受けるのも。でも、ここで過ごして、お二人と喋って、悪くないかも知れない。好きかも知れないって思いました。あと……」

 パメラは、はにかみながら言った。小さな花が咲くような、愛らしい微笑みとともに。

「とても素敵な復讐、応援してます」

「復讐?」

「私もいつか、一緒に!」

 ヘイデンは首を傾げるも、アガサは何かを悟ったように軽く目を伏せる。

「……そう。よかった。貴方の中で、私たちが糧になれたのが知れてとても嬉し、」

 そう言いかけると、パメラは荷物を置いたまま駈け寄り、アガサを抱きしめた。小柄な体では首に手が届かない。脇の下から腕を通す。

「行ってきます、師匠」

「ええ、さようなら。私の可愛いお弟子さん」

 パメラの小さな背を見送ると、二人は工房へと戻り、彼女が残していった上等な茶葉を淹れた。ヘイデンはクッキーを摘みながら、上機嫌に言う。

「よかったね、姉さん。もしかしたら、あの子こっちに来てくれるかも」

「……どうかしら」

 そう言って、アガサは紙の束をヘイデンに渡した。

「彼女の成績。クラスの中でも首席だそうよ」

「首席! それは凄いや」

「しかもグレシャムの技法を少なからず習得している。大きな企業なら、きっと欲しがる人材よ。皆、このロンドンで起きている違法魔書騒動をなんとかしようと、騎士団も企業もやっけになっているもの」

 ヘイデンは首を傾げる。これじゃ、まるで姉はパメラの就職を望んでいないようだ。

「そんな。うちの技術を盗むような真似を、彼女がするわけないだろう」

「元々、そのつもりだったの。没落貴族を復興させるより、技術を習得したアッパーミドルクラスの若き才能を企業に送り込む方がずっと簡単。そうすれば、自ずと良質かつ安価な魔書が出回って。そうすれば私はもうグレシャムを使わなくて済む」

 アガサは口にゆったりと弧を描いてみせる。だがその瞳は笑っていなかった。

「そうか、そうだったんだな」

 それが、姉さんの言う復讐だったのだ。

 ヘイデンは理解した。

「そのために、利用したのか」

 姉はずっと、自分の復讐のため、動いていた。再びグレシャム技法で修繕をし始めたのも、急に実習を請け負うと決めたのも、全て、全て、この技法を捨てるためだったと。

 事の顛末を悟った瞬間、ヘイデンの中に湧き上がってきたのは怒りだった。生まれて初めて、姉に対し憤りを覚えてしまったのだ。

「なんでだよ。あんまりじゃないか……」

 突如張り上げられた声に、アガサは肩を震わせる。

「でも姉さんは、本当に何も分かってない! どれほど彼女が姉さんを慕っていたのか分かっている? 毎日毎日、必死になって工房を良くしようって、考えてくれていたんだよ。それが何、技法を捨てるのため? あの子を道具のように扱うのはどうかと思うよ。知っているか、僕が、」

「だからといって、いい家柄の子をこんな小さな工房に入れられるわけないでしょう。つい数ヶ月前にまともな金勘定もできなかった没落貴族の元に! それこそ無責任よ。私にできるのは、あの子が自分のやりたいことができる環境にいけるよう、技術を与えて、背中を押してあげることだけだわ」

 私だって、あの子と一緒にいたかった!

 復讐と同じくらい、あの子のことが大切だもの。

 アガサの足が、ガタガタと震えている。頬が熱くなり、心臓がありえない速さで動いている。まるで前職力で走ったかのような深呼吸が、静かな部屋に響いた。

 ヘイデンは、アガサをソファへと座らせ、謝罪する。彼が姉に憤ったように、彼女が弟に感情のまま言葉を打つけるのは初めてだった。

「ごめん、言い過ぎた」

 小さな溜息が工房の棚を揺蕩う。気まずい空気は、僅かなそれで、溶けて消えた。

「私こそ、ごめんなさい。そうね、別に彼女とは永遠の別れって訳じゃないんだから。手紙でも送って、また晩餐会でも開きましょう。今度は私達が一から用意をして、パメラさんを招待するの」

「ああ、素敵だね。それまでに工房をうんと大きくしなくちゃ」

 ヘイデンは、まだ温かいクッキーを一つ摘まむ。アガサも続けて一つ摘んだが、僅かに塩気の味がした。パメラが砂糖と塩を間違えるなんて事は無い。じわりと舌に広がる、ちぐはぐな味を確かめる。

 翌月、パメラが本家の商社、マクィーン商会への入社が決まったと、連絡が入った。

・・・

 季節は巡り、九月となった。パメラがこの工房を去ってから三ヶ月の時間が経過した。相変わらずブリテン島の外では大戦が続いており、少しづつであるが街の空気も変わってきている。

 だがグレシャム工房はあの時、彼女が出て行ったときと同じ、小綺麗な風貌を保っている。

 国から受け取った依頼の数も少しづつ増えていき、金銭的に困窮することもなくなった。借金も全て返済した上に、いくらか貯蓄もたまってきたので、半年後にはロンドンの中心街に工房を移そうという話も上がっている。

 月日というものは実に早く過ぎていく。まるで清流のように、次から次へと。

 良い思い出も悪い思い出も直ぐに忘れよう、そう決めているだが今でも彼女の小さな靴の音が鳴っている気がして鳴らない。気を紛らわそうと、あまり好きではなかった街への外出も、頻繁に行くようになった。

 もしかしたら、パメラに会えるかも知れない。そんな淡い希望を抱いていなかったとは言えない。ウィンドウショッピングの最中だって、店先に並んだ年頃の女性向けの装飾品を見れば、彼女に似合うかも知れないと空想してしまう。

 ヘイデンはそんな姉を見かねて、少し休んで小旅行に行くことを提案したが、どうにもその気には慣れなかった。

 だって、もしロンドンを離れている内に彼女が来たら。いつもそう言うのだ。ならば手紙でも何でも送れば良い。そんな言葉も「きっと忙しいわ」と返されてしまう。

 会いたいのか、会いたくないのか、もうどちらなのか分からない。これぞ、女心は秋の空、というものなのだろうか。とヘイデンは呆れていた。

 今日もまた、彼女は部屋に籠もる。少しでも多くの仕事を片付ける為、一刻でも早く中心街に店を構えるため。

「姉さん。少し休んだらどうだ。朝からずっと、働きづめだよ」

「……あら、そんなに?」

「時計読めなくなってしまったのかな。ほら」

 ヘイデンは壁際の鳩時計を指さしながら、ティーセットを応接用テーブルの上に置いた。真綿のような湯気と、深いダージリンの香りがじわりじわりと立ちこめる。

 だらりと下がっていた彼の右腕は新型の義手によって整然と変わらない動きを見せ、隠していた右目も機械騎士団(マシナリー)特注の魔力式義眼が輝いている。

 この義肢を使わせるにあたって、彼等姉弟は何度も何度も衝突した。アガサは失った部位を少しでも補って回復して欲しかったが、ヘイデンは義肢を買う余裕があるのなら、引っ越し費用に利用して欲しいと訴えるのだ。アガサはヘイデンが腕と目を取り戻すことによってどんな利益が出るかと懇切丁寧に説明し、結果的に自分たちの生活において有利になることを伝え、やっと了承してもらえたのだ。

 装着から一ヶ月がたち、以前と同じようにとまでは行かないが、ヘイデンも少しづつ分冊作業の手伝いに参加できるようになってきている。そしてアガサの言うとおり、二人の生活は良い方へと繋がっていった。

「もう、意地悪言わないで頂戴。あと少しだから待っていて」

「そう言って何度も何度も先延ばしにしているじゃないか。パメラさんが見たら、なんて思うかな」

「……仕方ないわね。分かったわ。少しだけ」

 アガサは作業を止め、弟の腰かけるイスの隣へと向かう。

 二人がソファへと腰かけ紅茶の香りを楽しんでいると、こんこん、とドアノッカーが鳴った。姉弟は同時に顔を上げ、玄関の方へと視線を向ける。ハイデンは首を傾げた。

「今日って、何か来客の予定はあったっけ」

「カレンダーには何も……貴方こそ、先月始めた勤め先の先輩とかは。言っていたじゃない、新聞配達員の」

 ヘイデンは首を傾げると、恐る恐る扉の方へ近づいた。この工房にやってくるのは、一部の奇人変人変態蒐集家か、騎士団の伝でやってきた運び屋くらいだ。しかもその大半は事前に来客の知らせを届けてくれる。

 恐る恐る鍵穴を覗きに行ったヘイデンは、ぱっと目を輝かせた。

「姉さん! 姉さん早く!」

 高揚した弟の声色に動揺しながらも、アガサは玄関に向かった。と、同時にヘイデンは扉を開く。

 そこに居たのは、立って居たのは。

 アガサのたった一人の愛弟子であった。

「突然、失礼します。本日、雇用契約の件についてお話があって参りました。現在、職員の募集はありますでしょうか」

 ハキハキとした口調で言う少女を、呆然とアガサは見つめる。

「……パメラ。貴方、ご本家の商会に入るんじゃなかったの」

「はい。確かに私はマクィーン商会の社員です。どうしても叔父上は譲ってくれなくて。でも、押しに押して兼業の許可を頂きました。ゆくゆくはマクィーン商会と対等にやりあえるビジネスパートナーになれるよう、工房を大きくしましょう」

 愛弟子の姿を目にしたアガサの体は、考えるよりも先に動いていた。合成インクまみれのエプロンを着けたまま、ひしとパメラに抱きつく。

 嬉しかった。ただ、嬉しかった。

 目の前の少女が自分を選んでくれたことが、なによりも。

「アガサさん! ちょっと……!」

「お帰りなさい、パメラ」

 たった一言の中に、様々な感情が圧縮されていた。それに気がついたパメラは、口元を緩ませ、師匠の細い背に腕を回す。

「ただいま、師匠」

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