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熱帯夜、売ります
花火売りのツネが差し出したのは、黄色や赤の光を闇夜に放つ、小さな『熱帯夜』でした。線香花火の最も華やかなところで時を止め、そのまま逆さにしたような風でした。五月だというのに風は暑く、しかし線香花火のような『熱帯夜』は季節はずれで、その対比があまりに不思議でした。
『熱帯夜』の放つ柔らかな光が、花火売りの少年の丸い頬や細い首筋なんかを白く浮き上がらせ、その輝きは、彼が線香花火の精霊だったと言われても信じてしまいそうなほどでした。
「おひとついかがでしょう。今宵は五月の祭りです。夜の街の見物にはうってつけですよ」
ツネは言いました。彼の差し出す一輪の『熱帯夜』を受け取りながら、僕は曖昧にうなずきました。祭り見物なんていう気分ではなかったのです。人混みを避け、あっちでもないこっちでもないと、ひとりぼっちでさまよっている自分が、ひどく孤独に思われて仕方なかったのです。
「いくら?」
「百円です。安いですよ。なんてったって熱帯夜ですから。その辺に生えていますしね」
「じゃあ、ひとつ」
「毎度」
ツネは照れたように笑いました。まるで女の子みたいに無邪気な笑みでした。彼はもう一度ぺこりと頭を下げると、そそくさと片づけをはじめました。
「……ちょっと待って」
「はい、なんでございましょう。両替のご用意でしたらございますよ」
「いや、そうじゃなくてさ」
僕は『熱帯夜』をツネに差し出しました。それから言いました。
「僕、引っ越したばかりで、今夜祭りに行くのなんてはじめてなんだ。よかったら案内してくれないかな。見物どころとかさ」
「はあ、しかし」
「もちろん、ただとは言わない。これでどう」
僕は財布から五百円玉を二枚取り出しました。ツネはしばらく迷ったようでしたが、やがてその硬貨をそっと受け取りました。
僕らは連れ立って歩きはじめました。見慣れぬ街は、夜になるとますますその体躯をずんぐりと巨大にし、ランプの魔人が吐き出す煙のように青暗い闇が、急坂の階段の踊り場や、線路わきの狭い空き地にわだかまりました。あちらこちらで『熱帯夜』を手にした人たちが、さっぱりした寝巻き姿の影を石畳に投影させていました。
「こっちです」
ツネは言って、線路沿いに歩きはじめました。僕は『熱帯夜』をもてあそびながら彼のあとをついて行きました。『熱帯夜』はチラチラとほのかに光って、時々小さな火花を湿った草むらに落としました。
「この街には、もう長いの」
「はい。生まれも育ちもこの界隈です」
「ふうん。じゃあ、お祭りにも詳しいんだ」
「詳しいというほどでもありませんけれどね。『熱帯夜』を売るのが商売の一つですから、いろいろ見たり聞いたりはします」
あちこちで、祭りの青いランプが点っては、ゆらゆらとダンスをしていました。どこのお店も扉を開けて、橙や黄色の明かりをこぼしていました。あたりは奇妙な活気に満ち、どこもかしこもお祭りの予感で輝いていました。笛を吹く隊列が、丘の上の駅前広場からゆっくりと坂道を下ってきて、集まった物見客の掲げるフィルムにパチリパチリとその姿を収めていました。
「あ、『熱帯夜』がありますよ」
電柱の影に隠れるようにして、鮮やかな『熱帯夜』の花が、ポツリと咲いていました。ツネはそれをひょいと積んで、籠にしまいました。
「昔は、父と一緒に売っていたのですが、今は僕一人で。なかなか厳しいものはありますが、気楽にやれます。『熱帯夜』は、この季節になるとどこでも買ってくれますしね。仕入れもタダですから」
「ふうん」
「やっぱりお祭りの夜には売れ行きが違います。今夜の花火もそうですけれどね。みんな特別な夜を演出するのに『熱帯夜』を使うんです。線香花火なんかだと、すぐに終わってしまってつまらないからでしょうね。ギラギラしたヘッドライトや、艶やかな看板もいいですけれど、こういう澄み切った夜も悪くないと思うのです。ほら、こういう食べものも珍しいでしょう?」
路地に連なる屋台街では、揚げまんじゅうや金平糖、ラジウムやコバルト色した飴玉なんかが、裸電球の明かりをテラテラと照り返していました。僕はまんじゅうと飴玉を買いました。黄色く透き通った飴玉でした。口に含むと、かすかに火薬の匂いがしました。
「そいつは、この前降った流星群の残骸でさあ。河原の草むらに、チリチリ光を放って転がっているんですよ。そいつを拾ったんです」
店のおじさんは言いました。油紙に包まれた揚げまんじゅうも、一息に頬張りました。白い生地に練り込まれた炭酸のプチプチした感触が、甘い粒あんと一緒に舌に心地よく感じられました。