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ぽつぽつと拾い読みしている本のこと(その4)「連環記」

いつも手に取りやすいところに置いておいて、出かける時とかにカバンに入れて行き、ぽつぽつと拾い読み(再読)している文庫本の話、4冊目。

「連環記 他一篇」(幸田露伴)岩波文庫

幸田露伴は夏目漱石と同じ1867年に生まれているのだが、この二人の関係はちょっと面白い。
幸田露伴は1889年に小説家としてデビューして人気作家となったが、1906年くらいには小説から離れ、その後は史伝や評論などを主に書いた。
夏目漱石が最初の小説「吾輩は猫である」を書いたのが1905年だから、ちょうど入れ代わるような形で小説の世界に現れたことになる。そのせいもあって幸田露伴は同い年にもかかわらず、夏目漱石よりも一時代前の人、という感じがする。
しかし、漱石は1916年に死んでいるが、露伴は1947年まで生きた。
露伴のWikipediaを見ると
「しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』(1915年から1917年の作品をまとめた短編集)『運命』(1919年)を発表し、大好評を博して文壇に復活する」
とあるので、漱石の死とまた入れ代わりで露伴が表舞台に現れるような感じである。
(今回取り上げる「連環記」は露伴晩年の1941年の作)

さて、幸田露伴の史伝としては「蒲生氏郷」というのを読んだのが最初で、これが面白かった。
戦国武将の蒲生氏郷について、様々なエピソードを語っていくのだが、その語り口が楽しい。

「蒲生氏郷」の中でも、自分が披露する話には、全て依拠する資料があり妄りに捏造した話はないが、自分は歴史家や伝記家とは思われたくない、「夜涼の縁側に団扇(うちわ)を揮(ふる)って放談するという格で語ろう」と明言されている。

講談社文芸文庫「蒲生氏郷」解説(西川貴子)より

この「夜涼の縁側に団扇を揮って放談する」というのは、たとえば伊達政宗を語る時にはこんな感じ。

伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰(こ)えて大森に向い、相馬弾正大弼と畠山右京亮義継、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒になろうと父に請うたくらいに気嵩で猛しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様(どう)であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。

幸田露伴「蒲生氏郷」

近所に住む物知りの古老が、話をあっちこっちに逸らしながらも面白い話をしてくれる、という風情がある。

それで「蒲生氏郷」が面白かったので、次に「連環記」を古本屋で買ったのだが、これにはちょっと苦戦した。

「蒲生氏郷」と同じく語り口はくだけた感じで楽しい(一部かなり女性蔑視的な表現があってギョッとするが、まあ「昭和の男」どころか「明治の男」なのでしょうがないか)。

ただ、出て来る人物になじみがない。

「露伴最後の作品で、慶滋保胤を中心に、平安時代の高僧と彼らをとりまく人々のつながりを描いた史伝」

ということなのだが、「蒲生氏郷」は戦国武将の話だったから、主人公も、それをとりまく人々も、伊達政宗とか織田信長とか豊臣秀吉とか、さすがに自分でも知っている人達でいろんなエピソードを読むのも楽しかったのだが、こちらは平安時代の高僧、ということで、出てくる人物が皆さん初耳である。

慶滋保胤から始まって、増賀上人、大江定基、大江匡衡、丁謂、などのエピソードが語られていく。その連なりがタイトル「連環記」の元にもなっているのだが、正直誰一人わからない。
――まあこれは私の教養がないだけかもしれない。
時代的には紫式部とかと重なっているみたいだから、私は見ていないが今年の大河ドラマ「光る君へ」を見ている人にはなじみのある名前もあるのかもしれない。

で、なんとか最後まで読みました、という感じで読み終わったのだが、とてもきちんと味わえたとは言えない。
ただ、なんとなくもうちょっとで面白くなりそうな感じがあって、あらためてぽつぽつと拾い読みをしているところである。


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ほとんどなじみのない名前が並ぶ中で、かろうじてちょっと聞き覚えがあったのが赤染右衛門という人。
(赤染衛門と表記されることが多いようだが、「連環記」では赤染右衛門という表記になっている)
百人一首に入っているから聞き覚えがあったのだが、この歌についてのくだりが「露伴節」って感じで楽しい。

小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを小夜ふけて傾くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌ではなくて、人に代ってその時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、とあのように「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多にはない。あのような歌をよこされては、男子たるもの蜘蛛の糸に絡められた蜻蜓(とんぼう)のようになってしまって、それこそカナ縛りにされたことだったろう。

幸田露伴「連環記」

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