指痕(しこん)~飛び降り自殺に関するまったく本質的ではない話。
飛び降り自殺の現場に居合わせてしまったことがある。
それほど昔のことではない。
その瞬間を見たわけではないが、音は聞いた。
5メートルと離れていなかった。
60代か、70代か、というくらいの年恰好の男性だった。
私の知っている人ではなく、本当にただ居合わせてしまっただけである。
居合わせてしまっただけではあるのだが、近くにいた人間が私の他にいなかったものだから、警察を呼んだり(近くに交番があった)、警察の人から話を聞かれたり、警察の人が現場写真を撮って、それに署名させられたりといろいろ面倒ではあった。
自殺の現場、とは言っても、その男性は救急車で運ばれていったので本当に死んだのか自分は知らない(ただ警察の人は「あの高さだとちょっと厳しいでしょうね」と言っていた)。
強烈な体験だったので、いろいろ思う事もあるのだが、今のところまだ書く気にならない。
ただ、それほど本質的な事ではないのだが変に印象に残っていることがあるので、そのことをちょっと書き留めておきたい。
飛び降りたのは8階と9階の途中の階段の踊り場から。
9階建てのビルの外階段で、踊り場の金属製の柵を乗り越えて飛び降りたらしい。
柵の外に30㎝ほどの出っ張りがあり、そのフチの部分に指の跡が残っていた。
警察の人は「指痕(しこん)」と言っていたような気がする。
その言葉を言い慣れた感じで口にしていたので、こういう現場で、ああいう指の跡はおそらく珍しくないのだろう、と感じた。
これは映画とかテレビドラマの影響だと思うのだが、飛び降り自殺というと、体ごと前に倒れるように落ちるイメージがある(バンジージャンプみたいに)。
あともう一つのパターンとして、落ちる方向に背中を向けて、後ろに倒れ込むような形もイメージできる。
しかし考えてみると、あれはどちらにしてもかなり怖いのではないだろうか。
私は高いところが苦手な方なので、8階とか9階とかの高さは怖い。
自殺をしようとしている人であれば、世の中の全てのことがどうでもよくなっているかもしれないが、しかし生理的な恐怖心というのはまた別だろう。
じゃあ自分だったらどうするか、と考えると、たぶん柵を越えたあと、後ろ向きで下は見ないようにしながら、フチの部分を両手で抱え込むようにしておそるおそる両足を下に降ろして・・・それでそのまま体の重さでズルズルと落ちるに任せるような感じになるんじゃないだろうか。
あの時自殺した男性も、そんな感じだったのかな、と思う。
もしそうなった時・・・ずるずると自分の体がずり落ちていき、もう自分の力では止めることができない体勢になった時・・・フチの部分に自分の指が波のような後を残す時・・・そのわずかな時間にいったいどんなことを思うのだろう・・・そんなことを今も時々考える。