デモクラティックシンドローム
ちょっと久しぶりに思っていることなどを。
書こうと思っていたのはランニングに関する話なんだけれど、こちらはちょっと資料が揃ってから改めて触れたいなと。
閑話休題。なんだか音楽フェスが開催されたりされなかったりとそんな世の中になってきましたね。直近ではアラバキロックフェスが中止、ビバラロックは開催。個人的にはちょっと「?」と思うところもあるけれど、まあやるとかやらないとかはそれぞれにいろんなファクトとストーリーがあると思うからいいとして。
この間TOSHI-LOWがアラバキをオンラインでやったときに話していた、「突然中止となってもそこまでに後戻りができないほどの予備段階がある」という話、あれにはすごく考えさせられたというか、本当にそうだなと思うんだよね。細美さんの去年の言葉を借りれば、そんなもんは一本独鈷でやってきた職人たちなんだからなんとかなるさってことなんだろうけれど、現実問題としてそうもいかない話だってきっとあると思う。
仕事もそうだけどさ、現場は走ってるのに役員の鶴の一声で全てが止まったりすることってあるじゃん。組織ローカルでサラリーが発生していればそこは責任と権限なんだと思うけれど、今回のことはもっとマクロな話だからね。いざ物事を止めろとなっても行政がそこを担保したりするわけでもない。まあ一種の行動弾圧というか迫害にも等しい状況なんだろうなあ、と傍観していて思うのね。なんていうか政策が悪いとかじゃなくて、もうこの世の中の構造としてっていうことなんだけれど。
で、じゃあ個人としてどう行動するのかっていう話なんだけれど、政策がGOを出したから何をしてもいい?自治体の指示があるからその範囲なら何をしてもいい?かつての生活ではそういう部分が大きかったかもしれない。というか、モラルとか道徳というものの解釈がかなり関わってくると思うけれど、それでもやはり誰も見ていないからと言って罰則がなければゴミを捨てていいわけではないし、会社に行けば挨拶はするし、それが「モラルや道徳」だと思うのね。このコロナ禍において、個人として活動を自粛するかどうかとか、どこまで人と会わないようにするだとか、そういうことがもう「モラルや道徳」の一部になってきている気がするのね。そうやって他者と関わっていくと、こういう時に本質が見えるというか、「何を指針に生きているか」みたいなところが見えるなあって思うんだ。ポリシーがあるのか、ないのか、ただ人を恐れているのか、バレなきゃなんでもいいのか、とかね。
かくいう自分も日々、自分自身の中でそれを問うている。やっぱり違うんじゃないか、とか、昨日はこう考えていたじゃないか、とか。でもそうやって、考えて、ひとつひとつ決定してきたことの意味を反すうすることが経験値なんじゃないかなあって自分では思ってる。だから今回も、自分はビバラに行かないことにしたという決定の意味をやはり自分自身に問うているし、もっと細かい、日々誰かと交流するかどうか、そういうことも全部反すうしていかなければな。とも思っている。
めんどくさい世の中になったな。というのが正直な気持ちだし、自分自身はなんだかずっと世の中に取り残されて、雲の下の低いところで微睡んでいるような感覚なのだけれど、てめーに与えられた空はそこなんだから、そこをどうやって飛んでいこうかっていうことを考えなきゃいけないよね。そう思って、日々新しいことを思いついては壊し、希望しては諦め、挑戦しては抑制している。そんな日々になっている気がする。
でもまあ、元気に楽しく生きていく勘どころみたいなものは、ちょっとずつ覚えてきたかな。さすがに31にもなればね。
ともかく、作詞ができない。