フジロックの思い出②〜会場までの道のり編〜
(↑前回までのあらすじ)
日本初の大型野外ロック・フェスティヴァルに参加すべく、洋楽を聴き始めて数年の高校生3人組は意気揚々と富士天神山に向かうのだったが…
実在の人物たちなので、一応「G君」「I君」そして「私」としておこう。
(続き)
27年前のことなので、さすがに詳細までは覚えていないが交通手段としては最寄りの駅から送迎バスに乗れる案内になっていた。なので、その駅を目指して辿り着ければ道程としてはほぼ完了なはず。
しかしながら、乗り継いで行った最後の電車は、山間を走る短い数量編成の単線。上りと下りで同時に走行できないので、すれ違う際はどちらかが一旦停止して待つ、そんなのんびりとした線だった。おそらく普段は地元の人たちしか利用していなかったのだろう。そのぐらいの運搬能力であるところに、自分たちのことしか見えていなかった音楽ファンが大挙して押し寄せてきたわけで、車内はすし詰め状態。一分の隙間もないほどの押し寿司である。初めて電車通学となった日の朝に混雑にビビって乗れなかったり、後々には都内まで通勤していたときに途中とてもつもなく混む区間を経験もしたが、自分の人生の中であんなに混んでいる電車には乗ったことがない。
車両の扉が開いた瞬間、待ちかねた群衆が雪崩を打ち、近所の住民だったのであろう並んで待っていたお婆さんを押し潰さんばかりの勢いだった。この時点で、もう何かが間違っていた。自分は自分でボストンバッグを持っていた右手が入り切らないまま扉が閉まり、こじ開けようにもピクリとも動かず、かと言って諦めて荷物を手放すわけにもいかず、にっちもさっちもいかない状態に陥った。どうにかこうにか収まり乗車率300%を超える中、苦痛に耐えながらようやく最寄り駅まで到達した。
この駅と、会場となるスキー場とをシャトルバスが何度も往復し、ピストン輸送で観客を運び続けるという目論見だったはず。これが外れた。あとになって分かったことだが、どうやら車で来た人たちが道幅の限られた山道に何台も路上駐車していたらしく、バスが通れなくなってしまったらしい。いつまで待ってもやって来ない。行列の中でそんな噂話が広がり始め、一部の人たちが業を煮やして歩いて行こうとし始めると、ゾロゾロとついていく人の流れができ始めた。もう到着予定時間よりかなり遅れていたはずで、焦りもあった。せっかくここまで来て、始まる前にすでにこんな苦労もして、観たいバンドも観れなかったら死んだときに後悔するだろう。僕たち3人も、歩いて向かうことを決断。当時の我々はニルヴァーナに心酔していたので、誰かが「フー・ファイターズを見逃したらマジ意味ねぇよ」と叫んだのを覚えている。自分だったかもしれない。(※ニルヴァーナというバンドでドラムを叩いていたデイヴ・グロールが、解散後に立ち上げ自らヴォーカルも取った新バンドがフー・ファイターズ)
第1回=1997年の出演者一覧、上から出演順に並んでいます↓
これがまた無謀だった。
今は何でも簡単に検索できる時代で、まず間違いなく最寄り駅は「河口湖駅」、そこから臨時で送迎バスを手配していたのだろう。この辺りの細かい点も、色々な証言集など読めば明らかになるかもしれない。ともあれ、バスで約25分ということは実際には歩ける距離ではないと冷静であれば判断できる。7~8キロはあったのでは。ほぼ手ぶらだった記憶があるので、一旦宿に寄って荷物を置かせてもらったのだろう。それでも、そんなに離れていれば急いでも1時間半近くかかる計算だ。その間にも、フェスはどんどん進行している。
僕たち3人とも部活には入っていないか文化系だったので、普段からの運動不足が祟り、早い段階で足が痛くなる。G君は遂には足がつり、崩れ落ちるように道端に倒れ込んだ。その横転の仕方があまりに突然かつ派手だったので、足を撃たれたのかと一瞬思ったほどだった。
そんなこんなで励まし合いながら1時間以上を歩き切ったのだろう、やっとのことで会場に着いたときには、意外な光景を目にすることになる。
すでに雨が降り始めていたのか、地面はドロドロでぬかるみ、傍には夏なのになぜか毛布に身を包み体を震わせていた観客も。そのときは不思議に思いながらも、僕たちは遂にフジロックに来ることができた喜びを噛み締めながら、ザ・ハイロウズの演奏から参加し始めたのだった。消耗していながらもまだ体力は残っていたし、嬉しさと高揚感で元気も多少回復していた。
しかしこの後、天候はより悪化していく…。
続く(いつまでも続けられるな、こんな調子だと)
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