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学びのデータは誰のもの?

うぅ、バタバタしていて2週間空いてしまいました。これ以上間が空くと長期で書かなくなりそうなので、、、
昨日、JAPET&CECの教育ICT課題対策部会のウェビナーに参加させてもらったので、そこで話したことを1時間1本勝負で文字化してみたいと思います。


資料だけ見たいよ、という方は以下で。

今回は上記の後半部分、個人の意見として記載したP19以降を書いてみます(P1-17がデジタル庁として、P18がNTT Comとして書いているので、この場では割愛)。

テーマは「学びのデータは誰のもの?」

このテーマだとどんな話題にも繋がってしまうので、議論を収束させるのがムズイのですよね。
観点として、①権利、②思想、③技術、の3つに整理して話をさせていただきました。

実は既に以下の通り同じテーマでnote書いているのですが、「①権利:オーナーシップ」という事実の部分に留まっているので、②以降の自分なりの考えを話しています。

上記の際は「学習データはネコのもの」というふざけた蛇足結論を出していますが、、、

①権利:オーナーシップ

誰のものでもないけど、オーナーシップはある

最初に法的の結論。

学びのデータは誰のものでもない。

以前のnoteでも記載していますが、データは無体物(≠有体物ではない)なので、法的にはモノじゃない。モノじゃないとなると所有権・占有権は発生し得ない、という訳です。
一方で、データを参照したり、利用をコントロールする地位は存在し、一般的には「データ・オーナーシップ」と呼ばれます。

この辺りは経済産業省「AI・データの利用に関する 契約ガイドライン」に詳しく書いてあるので見ていただけたらと。

では、その「データ・オーナーシップ」はどのように決まるのか。
先ほどのガイドラインでも「データの保護は原則として利害関係者の契約を通じて図られる」とあります。

ではどんな契約があるのか

学校設置者(教育委員会や学校法人)とサービス提供事業者では、サービスを提供するための契約が存在します。1次的には、この契約がどうなっているか、になります。

一方で、学校設置者と児童生徒(代理たる保護者)ではどうか?というとここが解釈が難しいところ。
私学などだと明確な契約行為があると思いますが、公立小・中学校だと個々での部分的な取り決めなどはあっても、明示・明文化された契約行為がなく、データに対する権利の取り決めがないのではないでしょうか。
※市民と国との社会契約を起点に、法(教育基本法、学校教育法など)に則り提供されているのが学校教育、というのが自分の理解

これは特にデジタル・ICTに関わらず、アナログのときからの課題
学力・体力テスト、知能テストなんかもやったりしていたかもですが、それらは事業者と契約してやっていたものも多いはず。
そのデータのオーナーシップって誰なのか?は明確に決めていなかった、実態としては1次的に学校だったのでは、と感じています。

つまりは、これはこれからどう考えるか、思想次第じゃないのか、と。

②思想:フィロソフィ

思想というとなんか怪しい感じもしますが、、どういう考えを元に整理するか、という感じです。

データのオーナーシップは学習者にある?

まずはみんなで合意しやすいところから。
「学びのデータは誰のもの?」という問いに3文字加えて「学びのデータは誰の”ための”もの?」とすると答えはどうでしょうか。

これは「学習者(児童生徒)のため」とほとんどの人が答えると思います。もちろん、保護者や先生、みたいな中継点もあるかもですが、最終的には学習者のため、というのがほぼ全員合意できるのじゃないでしょうか。
(お国のためだ!という人もいるかもですが、、、まあ、そういうのもあるよね、と)

そうなると「学びのデータのオーナーシップは学習者にある」が結論になりそうですが、よくよく考えると全員合意が難しいのが実態なのじゃないかと思っています。

オーナーにはデータのコントロール権がある

例えば、学校関係者と学びのデータを議論すると「どのデータを児童生徒に還元するのか、ここが難しい」なんて話をよく聞きます。
もし学びのデータのオーナーシップが学習者にあるとするならば、この発想自体を転換しないといけないはずです。

考え方としては、「どのデータを児童生徒に還元するのか」から「どのデータに我々(学習者以外)はアクセスして良いか」に転換が必要です。
なぜなら、学習者がオーナーであれば、そもそもすべてのデータに学習者はアクセスでき、他人が見られるかは彼ら・彼女らの意思に基づくからです。

こう書くと、それって実態として運用できるのか、って声が出てきそうです。
勿論、発達段階から年齢によって代理たる保護者の判断になるでしょうし、例えば指導要録のような法的に学習者側に開示されないデータはあります。

私は、オーナーシップは学習者にある、という整理にするべきだと考えています。
が、学校教育においては、一定の範囲で学習者に関わる教職員等に自動的に委任もされるべきだと考えています。
ここのアクセスの制御が結構肝で、そちらは最後の技術のところで述べてみます。

学習者主体の学びの広がり

一方で、学校教育全体の流れとしては、学習者主体、を強めていくことが大きな方向性なのだと理解しています。

中教審答申の「令和の日本型教育」でも「自己調整の学び」が何度も記載されていますし、

以前も書きましたが、「自己調整学習」や「環境を通して行う教育」などは新しい学習指導要領でも中心概念として議論されています。

根底にあるのは子ども観の問い直しであり、以下の動画にあるように「多様性の深い理解」と「自立性を信頼する覚悟」が必要なのだと思います。

【令和の教育】奈須正裕著『個別最適な学びと協働的な学び』自由進度学習だけでなく、より良い学級・学校経営のヒントに!

こうなってくると、学習者にオーナーシップがある、という考えも広く一般化されてくるのでは、と感じています。

その意味でも、2030年に次の学習指導要領が全面実施される予定な訳で、そこまでの準備期間はまさに「2nd GIGA」の利用期間と一致します。うーむ、めっちゃ重要なインフラだな、と。

③技術:セルフソブリン

ではそれらを具現化するための技術はどのようなものなのか。

セルフソブリンって聞きなれない言葉かもですが、セルフ=自己、ソブリン=主権、ってことで、システムの構造を自己(学習者)主権型にしよう、という意味になります。

ざっくりとした具体は、

  1. 学習者の判断でデータのアクセスや利用ができるようにする

  2. 学習者が利用しやすいデータにする

の2つ。

学習者の判断でデータのアクセスや利用ができるようにする

上記の図で言うと主にこの辺り。

学習者が権利を行使するには、そもそも本人であることを厳密に証明することが必要になります。大事なデータ、なりすましは許す訳にはいかないので。
そうなると、適切な利用者認証が必須です。
ネットバンキングでID・パスワードだけで振込できる銀行はありません。今のGIGAの環境では本人認証が脆弱過ぎるため、権利行使のための本人認証の条件が揃っていない、と言えます。

また、本人であることが証明できたら、権利の行使ができないといけません。
そうなると、学習者起点の認可制御が必須です。
学習者の判断で、誰にどんなデータを見て・利用して良いのか、の制御です。これは本人が鍵を保持して、その鍵を元に制御する、という方式になってきます。

この辺は自己主権型アイデンティティ(セルフソブリンアイデンティティ)と呼ばれる技術領域なのですが、なんとも難しい内容なのでこの場では割愛しちゃいます。どこかでなんとか分かりやすい解説にチャレンジしてみます。(興味ある方は以下とかで)

学習者が利用しやすいデータにする

もう1つの「学習者が利用しやすいデータにする」については、図で言うと以下の辺り。

データがたくさんあっても、それが「誰の」が分からないと学習者側は制御しようもない。
そうなると、学習者を指し示すIDの相互運用が必須です。
様々なコンテンツを利用するとなると、または転校・進学・卒業などを考慮すると、1つのIDで全てをまかなうのは困難(マイナンバーを使わない限り)。
なので、複数のIDを相互運用=どの学習者に紐づくのかを簡単に管理できるようにする必要があります。

また、データがたくさんあっても、それが「何を学んだことか」が分からないと学習者側は利用する価値がなくなってしまう。
そうなると、学びのデータの内容や活動、学習歴の標準化が必須になります。
「足し算・引き算」を「映像で」学び「基礎的な構造を理解した」としても、それがそれぞれの学校・事業者でバラバラに表現されていたら、学習者側は利用しにくくてしょうがない。(そして2次利用もしずらい)
なので、学習内容・活動・学習歴などを揃える=標準化していく必要があります。

とまあ、やること多すぎなのですが、、、既に始めていることもあれば、まだまだこれから(本人認証の強化や、学習歴の標準化はまだ着手すらできていない涙)もあるので、2030年のターニングポイントに向けて準備していきたいと考えています。

まとめにならないまとめ

とまあ、最後の技術のところは論点だしまでしていますが、全体的に抽象度高いことを昨日は述べていました。

個人的な意見ですが、権利や技術って思想の後追いなんだと思っています。
学びのデータについては、「国が」「事業者が」みたいな話が多い印象ですが、国も事業者も結局は市場の後追い、もう少し良く言うと「現場がやりたいこと」を後押しする存在なんだと思います。

思想:フィロソフィと書きましたが、民主主義も制度というよりある意味で思想だと思っており、なので学習者主権も思想なんじゃないか、と。
そして「思想は現場の行動によって形づくられる」と自分は考えています。

民主主義を機能・体現するための場が公教育であるならば、学習者主権はある意味で必然。
そしてそういった権利(制度)や技術(システム)が形づくられる起点は、現場であって欲しい、というのが民主主義の構造から見た望ましさなんだと思っています。

なので、現場の実践が最も重要で、それを支える公的機関であり、民間事業者として自分はアクションを続けていきたいな、と思っています。

ということで1時間たったので今回はこの辺りで。
次回は前回予告していたデジタル教科書周りのことを書こうかな、と

ではまたー。


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