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軽井沢に出版社をつくるまで。

2022年の年明け、長野県軽井沢町を本拠として、出版社を登記しました。
社員は私一人。株式会社としての法人格です。
ここでは、なぜ一介の編集者にすぎない私が、会社を辞めて、創業を決めたのかを書いてみます。


1・サラリーマン万歳。起業家魂なんてゼロだった

経歴は、書籍の編集を10年。主にビジネス書や新書をこれまで手がけてきた。思い返すと新卒から20年、いっときも離れることなく、どこかの企業に雇用をされていた。毎月給与をもらうことに慣れきった自分がなぜ起業を決めたのか。リスクをとってまでやりたいことは何か。
最初に断言しておくと、立身出世の精神はゼロだし、強靭なメンタルもない。もちろん人を引っ張るリーダーシップも、業界で注目される圧倒的結果も、ない。

なのになぜ?

共感してもらえるかわからないが、気づいたときにはもう出版社をつくることは決まっていて、自分としては流れに乗っただけの感覚。決断の瞬間も、人生を変える決定的できごともない。ふわふわと、たのしそうな匂いにひかれてたどりついたのがたまたまそこだったというだけ。でも確信だけはある。そんな状態。

2・終わりと過渡期ーニュートラルゾーン

人生の流れが変わったのは、20年春の軽井沢への移住。開校をむかえた軽井沢風越学園に子どもが入園するため、家族で引っ越した。すぐに軽井沢での暮らしは気に入った。自然のなかに住まわせてもらうような生活や、子育てに前向きで柔軟性のある保護者の方々とも交流も、これまでにない刺激で、価値観を変えるに充分な日常だった。

当地で知り合い、いまたっぷりとお話を聴かせていただいているパパ友の方によると、トランジション(人生の変革期)のプロセスは3つにわけられるそうだ。
曰く、
「終焉(何かが終わるとき)」
「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」
「開始(何かが始まるとき)」

「終焉(何かが終わるとき)」
東京の暮らしを終わらせて(子育ての名目での強制終了)、軽井沢での暮らしを始める。自分や夫婦だけだったら、この「終わらせる」という決断は取りづらかったと思う。育休をとり、子ども中心の暮らしを心底訴求していたからこそとれた決断。妻も正社員をやめ、業務委託に移行した。私も移住後、半年で当時所属していた出版社のマネジメント職をおり、2年後には退社をした。
そもそも、いまここに暮らしていられるのは、子どもの存在のおかげ。感謝。

「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」
ニュートラルゾーンの1年では、ほんとうにいろいろなことを試した。
最初に湧いたのは、畑と農への衝動だった。
たまたま子どもの送迎の途中にある空き地を見つけて、不動産屋に飛び込んだ。畑をしたくて、土地を借りようとした。長野県が取り組んでいる「農ある暮らし」に問い合わせて、土地探しを手伝ってもらおうとしたこともあった。農業大学のパンフレットも取り寄せた。就農までは数年の修行期間が必要とのこと。

しかし、どう計算しても、土地代を払って生活になるまでは相当ハードルが高い。その後、知人の紹介で幸いにも「自然農」を志向した畑をお借りできて、コンパニオンプランツというやり方から、自宅用に少量を栽培することを始めた。

本屋さん、という選択肢もあった。
風越の保護者の方々と、「風の本棚」という場づくりを一緒にさせてもらう体験ができて、リアルに人と本が出合う瞬間に立ち会わせてもらった。リアルで本を届ける。本の出合いを生み出す。いま、書店がないエリアが増えている中で、「本棚」をおけば、山の中であってもそこは書店になるというのは、ひとつの痛快なカウンターのようにも思えた。

具体的に、ホワイエという個人が書店になれる取次の口座を開設したりもした。でも、なぜか本を仕入れて売ろうというところまでは手が動かなかった。やり方がイメージできなかったのか。情熱が切れてしまったのか。

それ以外にも、地域おこしやプレイパークづくり、教育関係はどうだろう?などいろいろと妄想していた。いま思い返しても、じつにふわふわした実現の薄い、それでいて本人は割と本気な、ニュートラル期間。

3・思いつきとしての「軽井沢出版」

実はニュートラルゾーンの時期にも、いまにつながるやりとりがあった。

風の本棚イベントのときに、「軽井沢出版」というネーミングを思いつき、それを商標登録しようとしたのだ。
妻との会話で、「軽井沢に出版社あったら、いいんじゃない?」「軽井沢出版ってつくったら書きたい人たくさん出てくるんじゃない?」なんて軽口を叩いていたら、「それ、誰かが他にやったら悔しいんじゃない?」と言われた。
「いつでも始められるように、商標登録だけでもしておいたら?」
そんな返しを受けて、「それもそうだなぁ」と思った。
商標登録自体は受理されなかったのだが(地域の入ったネーミングは登録できないのです)妄想をリアルな社会につなげようとした最初の一歩だったかもしれない。

商標は取れなかったけれど、その頃からリアルに「出版社」ってどうなんだろう? と考えだすようになった。

考えてるだけだと思考が前に進んでいる気がしないから、とにかく誰かに話を聴こう。情報があれば、それに反応する自分のモチベーションも把握できるはず。そう考えて、何人もの先達、パイオニアの人たちに話を聴いて回った。

「車1台買うのを我慢して、代わりに本を1冊つくってる感覚です」
そんな言葉をうかがい、書籍制作の相場感を伝授してもらった。
つまり本を1冊つくり、流通させるくらい刷るには150万円くらいはかかるよ、ということだ。うーむ。趣味でやるには高すぎる・・。

「マーケットインなんていうけど、本にマーケットなんてないんです。魂込めて本をつくるだけ」
キャリアある先輩編集者の方にはそんな言葉をかけていただいた。真っ当なスタンス。大いに共感しつつ、そこまで狂気の仕事ができるだろうか。たじろぐ自分もいた。

そんななか、ふと矢印が自分に向かう一言をくらったことがあった。

ある編集者で、出版社を立ち上げた人物に、恵比寿のカフェで別れ際にこんなことを言われた。

「ここに話を聞きに来ているってことは、もうすでに「出版社をやりたい」ってことですよね?」

いつしかリサーチ会社のように、実地調査モードになっていた自分。そして、先駆者に話を聞くことで「動いている感」を味わい、決断をどこか先送りしていた自分。そんな気持ちに気づかされた。

「軽井沢に出版社、いいじゃないですか。地方に出版社が勃興する時代、上杉謙信みたいに東京に攻めてきてくださいよ」

そんな激励に近い言葉をもらい「上杉謙信、いいな」と思ってしまった。さすが敏腕編集者は人の背中を自然と押す才能が半端ない。ある意味でその気になった自分は、まず締め切りを決めた。会社を辞める日。そして、地元の信用金庫を訊ねた。資金を借りるために。資料もつくって、何度か提案する手応えは悪くない。費用的には準備ができそうだ。

社名に込めた願い

社名は、最後の最後まで悩んだ。
実はこの「中立圏(ニュートラル・ゾーン)」の間、毎月コーチングを受けていた。やりたいこと、心に湧き上がってくる言葉をひたすらひたすら聴いてもらう体験。心理的安全があって、好き放題に喋ってみるという体験。それは、普段うっすらと感じているけれど潜在意識に眠らせてしまっている自分の声を自然と引き上げる体験だった。

コーチに、社名を相談すると、まずは締め切りを決めてみましょうと言われた。「軽井沢出版」は(仮)の状態でずっと手元にあったけれど、ある信頼する方に「軽井沢でいいの?」「やりたいこととあってる?」とフィードバックをもらい、それを脇に置いて、良い案がないかグルグルグルグル探し回っていた。

ある人からは、
「その社名でTシャツをつくればいい。3年後のラインナップをつくってみたらいい。そこでカッコいい、と思えるか」
そんなアドバイスをもらった。それに従って、知り合いのデザイナーに仮の社名でいくつもロゴをつくってもらったりした。

こうして、少しずつ自分の口に出してみる。
するとかつてからそこに存在していたかのような口になじむ社名になった。

それが、あさま社、だった。

ここからは業務をこなすように、目の前の手続きを進め、2022年2月末に会社を退社した。

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ほんとうにざざっと振り返っただけなので、たくさんのことがあったが、それはまた機会をつくって振り返ってみます。そして、あさま社のことは、これからたくさん書いていきたいし、一緒に何かができる人を探していきたい。理念について書きたい。

あゆみは遅いかもしれませんが、じっくりと根を張るように、出版活動を進めていきます。どうぞよろしくお願いします。
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この記事は「投げ銭」記事です。サポートいただいたお金は、家庭菜園で野菜をつくる費用に投じていきます。畑を大きくして、みなさんに配れるようにするのが夢です。