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イスラエルで1990年代を暮らした。

ハマースによるイスラエルへの攻撃から1か月。
ニュースではしきりにガザへの反撃が取り上げられている。
 
私がイスラエルで生活していたのは1994年から2001年までだった。
ヘブライ語を覚え、日本企業の現地法人でツアーガイドおよびメディアコーディネーターや通訳として働いた。
 
当時は日本人も少なかったがITによってイスラエルが経済的に勃興しはじめ、それまでのアラブボイコットもおさまってJETROをはじめ日本商社も進出してきたころだった。
 
94年、私がイスラエルについてすぐのころ、イスラエル兵士が誘拐され、パレスチナの実行犯が逃亡した。私がいたキブツ(集団農場)にも自宅待機命令が出されたことが最初の生身で感じた緊張だったかもしれない。
 
同年にはヨルダンとの和平合意が締結された。
それまでイスラエルから入ることのできなかったヨルダンに行けるようになり、イスラエルから旅行者が大挙して押しかけていたころだ。私もヨルダンに旅行に行った。
ヨルダンではイスラエルとの国交は経済面での期待も大きく、ヨルダン人がヘブライ語を習っていたりもした。
 
93年のオスロ合意からイスラエル・パレスチナ双方に和平ムードが高まって、交流も盛んになり希望にあふれていた明るい時代があった。
お互いの和平活動家たちが一緒に市民運動をすすめていた。そこからイスラエル人とパレスチナ人のカップルも生まれ、数年の間に約100組が結婚したと報じられたこともあった。
 
だが、95年。
凶弾により和平のけん引役であったイツハク・ラビン元首相が暗殺された。
実行犯はイスラエル人であり強硬右派のユダヤ教徒、イガル・アミールだった。
同じころにガザで台頭し、パレスチナ民衆の支持を集めはじめていたのがヤシン師が率いるイスラム原理主義組織ハマースだった。
 
その時を境に、イスラエル領土内での自爆テロが増加した。
イスラエルとパレスチナの和平を望まない勢力が確実に存在していた。
それ以前にも自爆テロは行われていたが、違っていたのは実行犯が女性や子供、また救急車を利用したテロが頻発した。

ヤシンは「これはイスラム教義にのっとった聖戦の輝かしい手段だ」と公言し、それまで表立って認められなかった女性や子供のテロ実行犯も殉教者に加えられることとなった。
 
実行犯の家族にはハマースから多額の報奨金が送られ、町には彼らの遺影が勇ましいポスターとして飾られた。
極限状況の地におかれている大家族が、わが民族を追い込んだ敵に爆弾を抱えた一家の末子を送り出す。そのための動機と物語もハマースはしっかりと用意していた。
 
それに対応し、イスラエル側検問所ではいままで比較的緩慢であった女性や子供への身体チェック、緊急時には優先的に通行ができていたパレスチナ赤新月社の救急車も停止させてチェックする対象となった。
ハマース、そして当時のパレスチナにおけるリーダーであったヤセル・アラファト元議長もその対応を「非人道」として世界的非難を呼ぶための材料として用いた。
 
96年に行われたイスラエル選挙では、ラビンの死後、首相代行となっていた労働党シモンペレスが和平推進路線を掲げたが、度重なるテロにより国内世論は安全保障へと傾いていた。1パーセントの得票差で右派リクード党首、ベニヤミン・ネタニヤウが選挙に勝利し、パレスチナへの対応は強硬策へと移り変わった。
 
オスロ合意のもう一人の立役者は隣国ヨルダンのアブダラ・フセイン元国王であった。
中東戦争で自ら空軍パイロットとして出撃し、当時イスラエル軍参謀総長であったラビン元首相とは戦場で敵対しあった人物である。

ヨルダンは国民の8割がパレスチナ出身であり、内政バランスが非常にデリケートな国でもある。ハシミテ王家の威光を保持し、アラブの春も乗り越えて今も王室が続いているのには元国王のカリスマ性と卓越した政治能力があったからとも言われている。
 
中東戦争を戦い抜き、老年に達したフセイン、ラビン二人のリーダーは「過去ではなく未来の子供たちのために」と恩讐を捨て、和平の道を選んだ。
94年に和平合意を結んだ直後に、イスラエル北部の国境緩衝地帯からヨルダン兵がイスラエル人児童のハイキンググループに銃を乱射し犠牲者が出た事件があった。
 
事件直後、イスラエルでは和平条約の撤廃が世論に上った。
そのときフセイン元国王は自らヘリを操縦してイスラエルへと降り立ち、犠牲者の家族一人ひとりに膝をついて謝罪を行った。
その誠意に触れた遺族たちが、蛮行は決して許さないがあなたとなら平和の道を歩める、と和解の抱擁をかわす姿がイスラエル国内のニュースで流れた。
 
そしてラビン元首相の死と前後してアブドラ元国王もガンを患い余命いくばくもない状態だった。
ラビンの死を受け、威厳を尊ぶアラブの王がガン治療により頭髪も髭もまばらな姿をイスラエルのテレビにさらしながら、イスラエル国民に「和平を進めよ」と訴えていた。
当時、まだヘブライ語がおろそかな自分であったが、その姿をニュースで見たときに鳥肌がたった。
 
同じアラブのリーダーであり和平の当事者であったはずのPLOアラファト元議長は、オスロ合意直後のパレスチナでの演説で「イスラエルの殲滅をあきらめていない」と語りイスラエル国民の失望をかっていた。

2000年、政権を取り戻した労働党のバラク首相は、キャンプデービッドにおける和平会談でクリントン・パラメーターと呼ばれるエルサレムの分割統治案をアラファト元議長に提示した。
これはそれまで絶対的にイスラエル指導者がタブーとして口に出さなかった譲歩案であり、二か国共存の決定的条件であった。
西岸地区の97パーセント、ガザ地区全域と東エルサレムをパレスチナ領とする内容が含まれていた。

その統治案をアラファト元議長は拒否した。イスラエルとの和平を良しとしないアラブ諸国の圧力に負けたといわれている。
また反イスラエルを掲げるハマースにパレスチナ盟主の座を奪われないためにも元議長は強硬姿勢に出たとも見られた。

近年でもっともパレスチナが独立、建国できた機会はこの時であった。

和平を望むイスラエル人の誰しもがラビンが、フセインが生きていたならば、と思った。のちのバラクの失脚はこの譲歩案が拒否されたことにより、国内世論にその責を問われたことも大きな原因となっている。
 
以降、状態は悪化の一途をたどり、イスラエル国内では一般市民を狙ったパレスチナ側によるテロ行為が増加し、イスラエルもガザをはじめとしたパレスチナ自治区への反撃を強化した。
2000年ごろにはイスラエル南部から地中海沿岸にかけ、並走する車を目掛け銃撃するテロが頻発していた。
 
当時、三菱重工が地中海沿岸のアシュケロンという町で火力発電所のタービンを納入していた。私はその技術者通訳として3か月、エルサレムから車でアシュケロンまで往復200㎞以上を毎日運転していた。

薄暗くなってからの帰り道では後続車が近づいてくると、もしかして、とハンドルを握る手に汗をかいた。会社のFIATをメーターいっぱいまでベタ踏みして運転していた。
路上の車もみな同じ気持ちでアクセルを踏み込み、後続車に追いつかれないよう走っていたのを覚えている。毎日、生活のどこかで死を意識する暮らしをイスラエル国民も強いられていた。
 
その極限状況の中、2000年9月にリクードのタカ派で知られたアリエル・シャロン元首相がユダヤ・イスラム両方の聖地であり、現在はイスラムの自治地域となっているエルサレムの黄金のドームがある神殿の丘を訪問した。これを契機にパレスチナの民族蜂起、第二次インティファーダ―がはじまった。

これに乗じてハマースによるテロも激化の一途をたどった。のちにこれはPLO側へイスラエル側から訪問を事前通達していたが、PLO側からは神殿の丘のイスラム教管理団体ワクフへの連絡を行わなかったことがもともとの原因として問題視された。
 
2001年3月、私には観光もビジネスもストップしたイスラエルを離れ、東京にある日本の本社へしばらく戻るようにとの辞令がおりた。
しかし、情勢は沈静化することはなく、現地法人は閉鎖、本社の旅行部門も経営が行き詰まり、私は日本に帰って3か月でリストラとなった。
 
30歳を目前に無職となった私は、ゼロからの出発を余儀なくされた。
日本を出た時には普及していなかった携帯電話とインターネットで世の中は様変わりしており、7年ぶりに帰った日本は異国以上に異国と感じられた。
組織で働くことが性に合っていないことを実感し、手探りでフリーランスフォトグラファー・ライターとして活動し始めたきっかけはそんなとこからだった。
 
さらにそれから3か月、2001年9月11日をきっかけにイスラエルが局地的に戦ってきた戦争が世界規模へと広がった。テロとの戦い、そのキャッチフレーズはそれまでの世界を塗り替えた。
 
今起きている戦争もその延長線上にあるという意見もある。
しかし、それは延長線上ではなく、その根源の部分で戦いが起きている。
1億対300万の劣勢から独立戦争の勝利を得たイスラエルは、世界の同情を受けて死ぬよりも、世界から非難されながら生き延びることを選ぶ。
 
私自身もイスラエルはもちろん、パレスチナ市民の無事を祈る。
しかし現実が厳しいことは肌身で覚えている。
心ある人たちがフリーガザと叫び、デモを行い連帯を叫ぶ。
パレスチナの子供たちが、無辜のパレスチナの民が、今すぐ停戦を。
その叫びは人間として十分に正しい。
 
ただ、それは同時に、
イスラエル人にとっては、
 パレスチナの子供たち、無辜のパレスチナの民は殺すな、
 ―しかしイスラエル人はだまって死ね。
と丁寧に丁寧に海の向こうから繰り返されているようにしか聞こえない。
 
他者の善意の声を利用して、己が支持を強め、さらなる争いを続けるための資金と戦意高揚へ変換していくことは武力に劣る武装組織が用いる最善の手段だ。
 
問題の根源、日本の通説とは異なるイスラエルの建国の背景、パレスチナのなりたち、ユダヤ人の歴史、そしてなぜこの問題がここまでのことになったのか、その直接的原因と狙い。

自己の感情を発露させるためのシュプレヒコール、それは自由だ。
しかし、本当に今起きていることを止めるためであるならば、感情とはまた別に透徹して事実を探り、疑い、見極めていく作業が最低限の素養だと自分に言い聞かせている。
 
和平ムード最高潮の時代にイスラエルに入り、その崩壊によって骨をうずめるつもりでいた国を離れた私にとって、この地域の歴史的推移は自分の人生とも切り離せない経験となってしまった。

そんな自分ができることとして、2003年からはイスラエルとパレスチナ、そして日本の子供たちが一緒に共同生活をおこなうNPOでの活動もはじめたが、それはまた別のお話に。

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Paulo 写真家 時々 ヘブライ語通訳
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