東日本大震災、イスラエル軍医療部隊同行記【第1話】
2011年3月11日。
赤羽の自宅にいて大きな揺れを感じた。
遅めの昼食だったカップラーメンの容器が倒れ、立てかけていた三脚がぐらぐらとしていた光景が記憶に残る。
そしてテレビをつけてあの惨状を知ることになった。
撮影の仕事もキャンセルが相次ぎ、ジャーナリスト仲間も次々と東北を目指したがフリーの連中はガソリンの確保に頭をなやませていた。
そんなとき、イスラエル現地のネットニュースでイスラエル国防軍が日本へ医療部隊を派遣するとの記事をみつけた。
在日本イスラエル大使館に勤める友人にコンタクトを取り、同行したいと申し出るが最初は却下。現地のハンドリングだけで手いっぱいとのことだった。
撮影取材だけではなく、ヘブライ語での通訳も可能なことを伝え、もう一度大使館に申し出たところ、出発日と集合場所を伝えられた。
東京から先遣隊が出発するのに同行、現地で使う大型バスに将校二人と大使館員一人、そして私だけが乗って東北を目指し出発した。
「このまま現地へ向かうのか?」
と将校に尋ねたところ、
「通り道なんだから、日光によっていきたいな」
とすまし顔で答えられた。
驚いた表情の私を見ると、
「本当にイスラエルに7年もいたのかい?これから緊急事態に飛び込むんだ。少し心に余裕をもたせることが大事だってのはわかるだろ?イスラエルじゃ観光ガイドだったんだって?ひとつ日本のガイドもよろしく頼むよ」
とウインクして握手を求めてきた。
「日本に帰ってきて10年もたつもんで、おかげでイスラエルがどういうところでイスラエル人がどういう人だったかってのを思い出したよ」
私はそう答えて握手に応じた。
バスは一路、いや、日光に立ち寄ってベースとなる「くりこま高原」を目指して北上した。
イスラエル軍というと日本ではあまり良い印象はないが、彼らはホームフロントコマンドと呼ばれる部隊で世界各地の災害で救助、医療活動を行ってきた。医療先進国でもあり、IT立国でもある彼らの技術は長年鍛えられた戦場での医療活動と組み合わされ、野戦病院が総合病院となる技術とノウハウを持ち合わせている。
最初は一カメラマンとして写真だけを撮ってくるつもりでいた私だったが、彼らとの活動を通してその後の生き方自体が大きく変わるきっかけとなるとは考えてもいなかった。
ー続くー