Notograph ノトグラフ 1月6~11日
1月4日より能登町を活動の中心と定めて仲間たちと支援活動を開始した。
災害支援専門ボランティア団体は年間を通じて災害支援を行っている。
最近は技術系ボランティアと呼ばれる団体が数団体あり、各地で同じ顔合わせになる。それぞれ連携を図り情報を共有し活動地を決めていく。
重機やチェンソーなどを用いた作業が目を引くが、すべての団体の活動目的は災害で助かった人々の「いのちをつなぐ」ことだ。私たちも重機ではなく、まず炊き出し機材と食材を詰めるだけ詰め込んで能登に入った。
発災から1週間近くたっても、炊き出しに訪れると「これがはじめての炊き出しなんです」といわれることが多かった。
とにかく温かい野菜いっぱいの汁物をごはんと一緒に提供する。
過去の被災地での経験則から自衛隊の炊き出しや行政による弁当の配布などが行われているはずの時期だが、民間団体と地元有志による炊き出しが続くこととなった。
半島部での災害、道路の寸断による交通網の麻痺、大きく地盤が変動したことによる上下水道の不通などインフラのダメージが大きかった。
水問題は半年続く課題となり復旧の歩みをはばんだ。
私たちが炊き出しを行う際に取り組んでいるのは住民の皆さんにも一緒に作ってもらうことだった。包丁を持つと落ち着くというお母さん。もらうだけで申し訳なかったという若者たち。作りながら地元の味を教えてもらう。
水が出ない暮らしというのは想像以上に大変だ。洗い物、料理、片付け、そしてトイレに風呂。そのすべてができなくなる。
この時期設置された自衛隊の風呂は住民のみなさんにとても喜ばれた。
この間、地元行政、ボランティア業務を担当する社会福祉協議会などと連携を図り活動の承諾を得る。同時に過去の被災地でともに活動した行政、社協と現地をつなぐことも行い活動の全体像を作り上げていく。
奥能登では物資調達はまだ厳しく、当座追加で必要なものは金沢でそろえた。悪路や渋滞にはまれば能登町から通常2時間半の道のりが6時間かかるときもあった。「能登行きを控えるように」と言われていた頃だ。
確かに渋滞はあったが時間帯次第であり、奥能登に入れば比較的動ける状態だった。個人的に「能登には行くな」という風潮は今後、この震災からの復旧にマイナスなイメージをもたらしていくのではと懸念した。