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パントマイム

1930年代 イギリス 
孤児の女の子

子どものいない裕福な家庭の養子となるが、その後、その夫婦に実子が生まれたため、以後あまり良い扱いはされていない。

着る物も待遇も、実子に劣る。悲しさや寂しさを感じながらも、それを表には出さずに目立たないように暮らす。

顔はいつも薄笑い。それが気に食わないらしい養母は、口実を見つけては彼女の手の甲を硬いものさしでベチベチと叩く。

赤く腫れ上がった手で家族の使った食器を洗う。飲み込んだ言葉はときに暴れて胸を刺す。薄笑いを浮かべた彼女の頬を涙が伝う。

誰にも気づかれないように、涙を手拭いで拭った彼女は、同じ手拭いで皿をごしごしと拭う。

お皿と一緒だな、と思う。
いや、お皿のことは叩かないだろう。
お皿より下なのかもしれない。

拭っても次々と涙がふきだしてくる。

ゴミを捨てに外に出る。
そのまま外に出て街を歩く。

月の光が優しく照らし、石畳にぼんやりとした影が浮かぶ。

かげぼうしの向こう、ランプに照らされた1枚のポスターが目に止まる。

チャップリン 
『パントマイム』

なんだろう。
面白そうだな。
見てみたい。

何かをやりたいと思ったのはずいぶん久しぶりだなと思う。

それでも、
許されはしないのだろう。
養母には。

彼女はいつでも養母の顔色をうかがっている。それでも結局なにか失敗をして、いつも失望を買うのだ。
こんなものを見たいと言ったら、また失望させる。怒られる。

彼女はとても悲しくなった。
それでもこんな街中で涙を流すことなんてできない。
みっともないと怒られる。

きゅ、と口角を上げる。
悲しくない。
私は悲しくない人だ。
心の中の悲しみなんかないものとして私は笑顔を作ることができる。

ああそうか、と彼女は思う。
パントマイムは、私の日常だ。

シャボン玉がふわりと彼女の目の前を横切る。

目を向けると、小さな女の子が家の窓からシャボン玉を作っては飛ばしている。

月あかりに照らされたシャボン玉は夜空に儚く消えてゆく。

シャボン玉を飛ばしている女の子の顔までは見えない。

楽しいのか悲しいのか。

こんな時間にシャボン玉を飛ばすなんて。非常識だ。みつかったら怒られるだろう。
他人事ながら足がすくむ。

ふわふわと揺れるシャボン玉の輪郭が月明かりに縁取られる。

非常識。

何がいけないんだっけ。
シャボン玉は、すぐに消えてしまう。

彼女を怒っている人は、
今はどこにも見当たらない。

シャボン玉を作って飛ばす瞬間。彼女はどんな表情をしているのだろう。


いいな。

彼女は急にその子を妬ましく思う。

いいな。

こんなことを思っても仕方ないのに。


帰りたくないな。



「ねえ。」

気がつくと、
彼女は窓の下から女の子に話しかけていた。

シャボン玉を膨らましていた女の子は視線だけを彼女に向ける。

「シャボン玉、きれいだね。」

そう言うと満足気に頷く。

「あげる」

女の子が、シャボン玉の容器を手渡す。


またね。と窓を閉めた女の子は、窓の向こう側からクマのぬいぐるみでバイバイしている。

突然の出来事に戸惑う彼女の手の中に、シャボン玉の容器がひとつ。

近所迷惑だ。

非常識だ。

ぐるぐると
そんな言葉が浮かんでくる。
バカバカしいと思う。


あんな小さな子にもできたのだ。
私にも飛ばせる。


広場の真ん中の噴水に腰掛けて、シャボン玉を膨らませてみる。
大きくしようと欲張ると割れてしまう。小さなシャボン玉はキラキラとしてきれいだ。


誰も怒らない。

シャボン玉を楽しそうに眺める人
鬱陶しそうにさける人
気付かず酔っ払って寝ている人

みんな好きなように演じている。

私は今、シャボン玉を作る人。

なんだ。
こんな簡単なことだったのか。

悲しいのに笑うことができる私は
シャボン玉を作る人にもなれる。


どんな人にもなれる。
なっていいんだ。


お皿以下の人を演じる私は
お皿以下の人じゃない。
それはただの演技だから。


何を演じていても
あなたはそこにいたんだね。


そしてもう1人の私は演じることで
私を守ってくれていたんだ。


私は私。


ぐぐぐと車軸がまわる音がする。



帰ろう。帰りたくない家に。

家を出るのだ。その日まで。


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動画絵本のナレーションをする時に、イメージを作るために勝手に作った文章。

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