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母の手

私の結婚式の前日、母がポツンと言った。
『わいは一人娘んくせにさ、父ちゃんにばっかい懐いたた』
母が私に愚痴を言ったのは、その時が初めてだった。
『母ちゃんな、そがんこつば思とったとね』
『思とったぁ。言わんやったばってん思とったぁ』
十四歳で被爆した母はずっと我慢の人だったが、父の死後何度も寂しいと電話をかけてきたのに、その頃の私に帰省する余裕は無く、母が掛けてくる電話を聞くだけだった。
母がそろそろ危ないと兄から連絡があり、やっと就職した息子に飛行機代をもらって、数年ぶりに帰省した。
母は特養のベッドの上で眠っていた。
『母ちゃん、帰って来たばい』
久し振りに見る母の顔は、筋肉が緩んで面長になっていた。
『母ちゃん私よ、わかるね』
耳元で声をかけると、母は緑内障で濁る目をかすかに開き、ぽかんと口を小さく開けて、蚊の鳴くような声で返事をした。
『わかるぅ』
母の声を聴いて、少し安心した。
『母ちゃん、心配ばかいかけてごめんね』
親不孝を詫びると、母は小さく笑った。
『良か良かぁ』
手を握ろうと掛布団を少しめくると、痩せこけて骨と皮だけになり、ミョウガのように丸まった手があった。
『母ちゃん、よう頑張ったね』
真っ白になった頭を撫でると母が言った。
『わいもたぁ』
愛情深い、昔のまんまの母がいた。
『母ちゃん、ありがとね』
母はそれから半年後、白鳩に導かれて空に帰った。

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