私には2歳児の気持ちがわかる、気がする
國學院大學の教授で柴田保之さんという方をご存知だろうか。
『みんな言葉を待っていた(オクムラ書店)』『沈黙を超えて(萬書房)』などの著書の中で、知的障害があると言われている方々の心の声を紹介している。
幼く見える者、感情や意思がないように見える者、そうした人たちにも私たちと同じような意思や感情があり、単に伝える手段を持たないだけだったと言うのだ。
(幼くても、意思がなくても生きているだけで尊いのだ…というある意味「上から目線」の社会的弱者への眼差しが衝撃と共に吹っ飛ぶ書籍なので是非読んで欲しい)
これ、私、わかる。
言葉が拙いと、中身の感情や思考まで拙く思われる。
例えば、外国の方の日本語が拙いとそんな風に見えたりしませんか?
私はグァテマラという国に2年ほど住んだのが、恐らく日本人特有の童顔さも相待って年齢よりも幼く見られていたと思う。何より、言語レベルが2歳や3歳くらいだったと思うので、大人なんだけど大人じゃないような扱いを受けていた(大人からは親切にしてもらい、子どもからはタメ、または年下のように面倒を見られ?ていた)。
言葉や見た目の与える印象って大きい。
特に幼児期は理系の言葉少なめな子どもより、文系の言葉が多い子どもの方が賢く見られると思う。でも、本当は言葉だけでは測れない部分が大いにあると思う。
今、職場の保育園に、少し発語が遅い子どもがいるのだが(2歳)、私には彼が色んなことを感じて受け止めて観察している様子がひしひしと感じられる(これも私の主観に過ぎないけれど)。色々と表出はしているのだが、それが、こちらが理解できる言語ではないだけなのだと思う。
グァテマラでは、私の第一言語は日本語で、第二言語がのスペイン語のレベルが2歳程度だったわけだけれども。頭の中は26歳だったよ(10年前)。
表出できない思考や感情が存在すること、それをわかってもらえないもどかしさを、身を以て感じた異国での二年間。
『自閉症の僕が飛び跳ねる理由(角川文庫)』『飛び跳ねる思考(角川文庫)』などで有名な作家の東田直樹さんも、自己の思考とそれを表出する肉体とのギャップに戸惑う様子を書かれているが、何となくわかる気がする。
ついつい、見た目の振る舞いやこちらが理解できる表現をしている人のみを認めてしまうところがあるが、本当は違うんだよな。
思考や感情は、きっと誰しも完璧なんだ。
金子みすゞさんの詩を借りると
「見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。」
今一度、矜持を正して、目の前の人間と接しなければと思う。