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国語がダメダメだった私向けの、必殺トレーニング
中学生の頃のお話。英数国理社と5科目ある中で、わたしはとりわけ国語の成績が悪かったんです。noteを書いてる人では、きっと珍しいはず。特に足を引っ張ってたのは現代文。チーンと落ち込むほどのテスト結果でした。
あるとき塾の先生に尋ねられました。「そうは見えないけど。『わたしはそうは思わない!』と強く意見がある方なのか?」
なんで、どうして分かったの。目をまん丸にし、ぶんぶん頭を振って頷いたのを覚えています。
一見すると、わたしの見た目は従順です。さほど意見がなさそうな感じ。その実、本当はガチである。当時も今と同じく、サッと言葉にできないだけで、自分の思うところは秘めてたのです。
塾の先生いわく、特に現代文においては、己の主張が明確にあるタイプほど、答えにケチをつけるというか。内容へ歯向かうように考えるため、正解を導けないそう。ああ、なるほど。思い当たるところがあり、深く納得です。
でも納得したとて、現代文を解けるようになるわけじゃない。さて、どうしたもんか。
わたしはたぶん、学校の先生にまんま相談したんだろうな。その証拠にその後、新聞に載ってる社説をノートに貼り付け、その隣へ自分なりに要約した文章を書いた上で、毎日提出してたんだもの。
当時の担任の先生が国語の先生で、「ほれ、持ってこい」と気軽に提案して下さったような。昔過ぎて詳細を覚えてないけど、一連の流れからして、そんな推測ができる。いま思うと、本当にありがたい。
真面目な気質も合わさり、わたしは文字通り、毎日提出しました。おおよそ1年間続けたかな。で、肝心の結果ですが、ちゃんと上向きました。おかげさまで、それなりになったのです。
国語で習う「読解」は、相手の言ってる内容を正しく理解できるようになるための訓練そのもの。このスキルって、とっても重要。社会に出た大人となり、初めてその重要性に気づきました。
相手は「A」と言ってるのに、「B」どころか、「あ」みたいに、似ても似つかない解釈をしてしまったら、すれ違うのもいいところです。まとまるものも、全く持ってまとまらない。
相手が「A」と言ってるなら、まずは「A」を言ってるんだなと受け取る。その上で、わたしは「B」だと思ったんだよとボールを投げる。このごく当たり前のやり取りをできるように、わたしは学び続けてたんだ。
ずいぶん時間は経ちましたが。社会で生きてく術を、あの頃は習ってた。ようやく気づいたのでした。
では また