偏りこそが、人間らしさの証なのかもね
わたしは自分の恋愛が下手っぴいであること、そして超巨大な劣等感の塊になっていることをnoteにてつらつらと書き綴ってきました。でもいつも頭の片隅では思ってたのです。そんな語れる程のもんなんだろうかって。
たかが恋愛。傷ついた、しんどかったと本人がいくら言ったとて、どないやねん。世の中にはもっと大変なことがあり、苦難があり、つらきことがあり。それらを押し除けてでも、大手を振って主張できることなのだろうか。
わたしの言う「しんどい」とは、世間の中において重みが違うっつうか、何も分かってやしない甘ちゃんでしかないんじゃ…とまぁ、湧き出る不安たちです。
私本人は嘘偽りなく、滅法傷つき、悲しみ、どん底までの落ち込みを感じてきました。涙が止まらなかったり、痩せたり、太ったり。表情がスポンっと抜け落ち、感情の振り幅が小さくなったこともあったし。割ときてるかと本人は思ってる。
それでも正々堂々と述べられない。取るに足らないことを書いてんじゃないか。どこか軽んじるような思いが、胸の中にしばしば掠(かす)めてく。
そこまで思い詰めるなら、誰かに相談すれば良いじゃん。あなたは思ったかもしれません。そうなんですよね。尋ねたこともあります。「大丈夫。そんな風に思わないよ」とみんな言ってくれる。
でもわたしの悪い癖で、言った相手の言葉を疑っちゃう。みんな優しいから、事実はそうじゃないのに、わたしへの慰めのこもった答えをくれてると思っちゃって。「んなわけない」て受け取れなかったのです。
ChatGPTに昨日書いた記事を用いながら、グズグズと相談してみました。するとこんな答えが返ってきて。
読んでみてハッとしました。確かにわたしの書く源泉を産んだのは、恋愛での劣等感です。自分の表現の価値を、自らが認めないでどーすんだ。伝わらないのは、磨く余地があるってこと。もっと率直に表現できるように伝え方を工夫してく。悩むエネルギーを創意工夫に回したまえ。己に元気な発破をかけることができました。
自分を客観視することは出来そうで、なかなか出来ません。上げたり、下げたりとしょっちゅうです。特に弱点だと思ってる箇所となれば、てんでダメ。偏りが生まれますね。
でもこの偏った歪(いびつ)さこそが、AIじゃあ成し得ない人間らしさなのかなーって。ふと思った夜なのでした。
では また