ぶらり関西みて歩記(あるき) 守口宿
〔第4回〕
まるで昼間みたい!?
明治末期、守口市初の電灯が灯った難宗寺
文禄堤の片隅にポツンとある「なら・のざきみち」と刻まれた古い道標から、石畳の階段を下りて行く。そのまま道なりに歩いて行くと、突き当りに「難宗寺」が見えてくる。
難宗寺は、室町時代の浄土真宗の僧・蓮如上人によって建立された。文明7年(1475)、布教活動のため大坂を訪れた蓮如は、枚方市出口に光善寺を建立した。その後「守口にも守口坊を――」と建立したのが難宗寺である。
慶長16年(1611)に本願寺掛所に昇格したのを機に「西御坊」と呼ばれるようになった。
その後、元和元年(1615)に焼失、風水害にもたびたび見舞われて、使用に耐えないほど傷んでしまった。そこで延宝7年(1679)に建立された岩清水八幡宮護国寺仮堂の古材を再利用して、文化7年(1810)に本堂が再建された。現在私たちが目にしているのは、このとき建てられた本堂である。
境内にひときわ目立つイチョウの木は樹齢400年といわれ、昭和50年に大阪府の天然記念物、昭和55年には守口市保存樹木に指定されている。イチョウは水分が多く燃えにくいので、建物の防火に役立っているといわれる。尚、イチョウには雌と雄があるが、この木は雄なので実はならない(残念…?)。
明治43年、陸軍工兵隊による「淀川架橋大演習」が行われたとき、皇太子殿下(後の大正天皇)が大阪をご訪問された。その際「父陛下の若き日の苦労を偲びたい」と希望され、仮泊されたのが難宗寺である。当時、開通間もない京阪電車に乗り、堂脇橋に設けられた仮設駅で下車して難宗寺に入られた。
そしてこのとき、難宗寺の境内では、守口市では初の電灯であるアーク灯が灯された。その様子は「まるで真昼のような明るさだった」と伝えられている。
難宗寺の土塀伝いにぐるっとまわると、お寺の正面に出る。車道へ出る角には、石でできた古い道標や記念碑のようなものが立っていて、今でもわりあいはっきりと文字が読み取れる。
大人のヒザくらいの高さの道標には「すく守口街道」と刻まれている。「すく」とは、たぶん「すぐ」のことだろう。その横にあるもう一段低い道標には「左 京」とある。たしかに、そこから左へ行くと京街道へ出るのだ。
並んで立っている背の高い2本の石碑には、それぞれ「御假泊所」「御行在所」とある。明治天皇や皇太子殿下が立ち寄られたことを記念するために立てられたのだろう。いずれにしても、ここにズラリと並べて立てられているということは、この交差点が当時は位置的に重要なポイントだったことを伺わせる。
難宗寺の前を走る車道へは出ず、向こうへ渡って細い道を行く。難宗寺が「西御坊」なら、その先にあるのは「東御坊」と呼ばれた盛泉寺だ。