ぶらり関西みて歩記(あるき)
枚方宿
〔第5回〕
古墳の上に建つ意賀美神社と戦国時代から生き続ける巨木
願生坊の前を、小高い丘に向かって歩く。左右に分かれる三叉路で、左に見える鳥居から続く階段を上ったら意賀美神社だ。意賀美と書いて「おかみ」と読む。
いま意賀美神社が建つ丘には、江戸時代まで真言宗万年寺とその鎮守社の牛頭天王社があって、丘の名も「万年寺山」と呼ばれていた。
伝承によると推古天皇の時代(592~628年)に、高麗から恵灌という僧侶が渡ってきた。このあたりの景色が唐の林岸江に似ているというので、草庵を営んだのが万年寺の始まりだという。
万年寺は、明治3年の廃仏毀釈で廃寺となり、牛頭天王社は須賀神社と名を変えた。明治42年、須賀神社は現在地から約100メートル南の伊加賀字宮山(いかがあざみややま)にあった意賀美神社に合祀されたが、境内が狭かったので万年寺山に遷座された。
昭和9年の室戸台風で倒壊するも、翌年に再建されたのが現在の意賀美神社である。丘の中腹にある梅林は、かつて万年寺の伽藍があった場所といわれている。
この丘には、4世紀頃のものと推定される古墳があった。
明治37年に枚方小学校の拡張工事が行われた際、青銅鏡8面と刀剣が出土したことから古墳の存在が判明した。平成17年の調査では、身長約170センチある男性の骨と石棺が発掘された。
ただ残念なことに、古墳はすでに原型をとどめていなかった。明治になるまで存在すら忘れられていたのだから、全く管理されていなかっただろう。古墳の元々の大きさや、範囲もはっきり分からないという。
平成の調査では、石棺の素材が四国の吉野川上流から運ばれてきたことが分かっている。そのことから、ここに埋葬された人物の権力の大きさと、交易の広さを窺い知ることができる。
元の鳥居まで降りて、道路の分岐点を左へ行くと、大きな「椋木」がそびえている。高さ20メートル、直径1メートル、樹齢500~600年の大樹だ。戦国時代から、この地で枚方の人々の暮らしを見守り続けてきたわけだ。
ここは万年寺山の南に位置し、河内鋳物師(いもじ)田中家の邸宅があった。田中家は江戸時代の公家・真継家(まつぐけ)の庇護を受けて、北河内の鋳物業を独占していた。鍋、釜、農具などの生活道具をはじめ、寺院の梵鐘や鰐口などを鋳造していたようだ。椋木の葉は表面がザラザラした手触りで、鋳物の研磨に利用された。
田中家は昭和の中期に廃業したが、椋木だけがこの地に残された。これだけの樹齢を重ねて全形を留めているのは珍しいため、大阪府の天然記念物に指定されている。
周りの景色に溶け込んでいるので、初めて見る人には判別が難しいかもしれない。だが、階段が出来ているので、誰でも間近へ行って直接触れることができる。