旧街道見て歩記(あるき)
第1回 庚申街道(こうしんかいどう)
四天王寺南大門を起点とする「庚申街道」の終点は、現在では「桃ヶ池の北端」と認識されている。だが古い資料を子細に検証すると、桃ヶ池からさらに東へ伸び、四天王寺・阿倍野・東住吉・平野の4区を貫いて大和川にかかる明治橋の北詰へ至る長い道であることが分かる。
↑ 四天王寺南大門
■庚申参りの道四天王寺南大門の北にある境内に、四天王寺四石のひとつで「熊野遥拝石」が据えられている。石は熊野への起点であり、庚申街道筋に正対している。このことから庚申街道の発端は熊野街道であったとされる。
四天王寺南大門前を走る国道25号を渡る。浄瑠璃の元祖・竹本義太夫の墓がある超願寺を右に見て、さらに100メートルばかり南に「庚申堂」がある。大宝元年(701)正月7日(庚申の日)、この地に青面金剛童子が出現して、天下の疫病を一掃したという伝説から庚申祭りが盛んになった。ゆえに「庚申参りの道」から庚申街道の名がついたという。
↑ 庚申堂
■現在の、通称「庚申街道」庚申堂から、さらに南へ行く。清水の井戸で知られる清水地蔵尊からおはぐろ地蔵を抜け、JR線と近鉄線を横断し、東南方向へ蛇行しながら明浄学院高等学校の西側をかすめて、桃ヶ池の北端へ出る。一般的には現在、ここが庚申街道の終点とされている。
地元の古老でさえ、
「庚申街道は桃ヶ池から北上する道」と断言する。
ちなみに通称「庚申街道」は、あびこ筋から1本西側の筋を指すようだ。
↑ 桃ヶ池
■桃ヶ池から東へ桃ヶ池から今川まで、田辺を東西に貫通する古道がある。戦災をほぼ免れた地域なので、今でも古い町並みが多く残っている。庚申街道の終点とされる桃ヶ池の北端から東へ伸びて今川へ至るこの道も、じつは庚申街道である。
明治18年版仮製図によると、街道は桃ヶ池側からみて今川の手前から東南方向へ折れる。だが、区画整理された現在は、旧街道の跡をみることはできない。しかし旧道は清水橋付近で復活し、阪神高速の下を抜けて、針中野1丁目から4丁目の中心部付近にある「はりみち」道標へ至る。余談ながら「針中野」の駅名、この地で古くから鍼灸院を営む中野氏に由来している。
↑ はり道道標
庚申街道はここから南百済小学校の前まで、八尾街道と一部重なる。照ヶ丘矢田のほぼ中心部で東へ折れ、中臣須牟地神社へ至ると再び南下して大和川へ至る。堤防に沿ってひたすら東へ伸び、平野区川辺1丁目にかかる「明治橋」で古市街道と合流する地点が、庚申街道の本当の終点である。
明治橋は、1995年頃に、元々あった場所から西寄りに付け替えられたそうで、古い資料と照らし合わせても位置が異なる。
↑ 明治橋
※参考資料
大阪市の旧街道と坂道 ―(財)大阪市土木技術協会・(財)大阪都市協会編―
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