ぶらり関西みて歩記(あるき) 大阪の文学碑
〔第10回〕
宇野浩二
■父の急死で大阪へ
本名を格次郎といい、明治24年7月26日、福岡県南湊町(現、福岡市中央区荒戸1丁目)に生まれる。父の六三郎は中学教師を兼任しながら師範学校で国語・漢文・習字を教える教育者だったが、浩二が3歳のときに脳溢血で急死している。
7歳上の兄と一緒に母親に連れられ、大阪の親類を頼った。だが1か所に落ち着くことはなく、一家は親類の間を転々とする。ようやく母の兄がいる宗右衛門町に落ち着いたのは、浩二が8歳の頃であった。
天王寺中学校(現、天王寺高校)に進んだ浩二は文学に興味をもち、校友会誌「桃陰」にたびたび作品を投稿している。
19歳で早稲田大学へ進むが中退し、大正8年に発表した「蔵の中」「苦の世界」が認められ、新進気鋭の作家として地位を確立した。
■「苦の世界」は実体験?
「苦の世界」は、善良で不運なのに、どこか滑稽で貧しくも飄々と生きる人物を描いた作品で、浩二の実体験だといわれている。
ある日、場末の娼婦街で知り合った伊沢きみ子という21歳の女性が、6畳1間で母親と暮らしている浩二のもとに転がり込んでくる。母親は親戚の家に逃げてしまい、浩二ときみ子の同棲生活が続く。浩二が経済的に行き詰まると、きみ子は「もう一度芸者に出ようかしら」と横須賀へ出る。
その後きみ子は、横須賀でつくった借金を踏み倒して横浜へ移り、浩二とは次第に疎遠になっていく。やがて消息すら知れなくなったとき、友人から「きみ子が自殺した」と知らされる。
こうした体験から「命の儚さ」を表現したのか。「苦の世界」は、主人公が身の振り方を考える日々がだらだら続いて唐突に終わるのである。
その後も浩二は精力的に作品を発表し続け、中には「清二郎 夢見る子」「十軒路地」「大阪」など大阪の人情や風俗を描写した作品もある。その独特の文体は「饒舌体」と呼ばれた。
■精神を病み女に苦労した晩年
浩二が精神を病んだのは、昭和初年のことだった。芥川龍之介や永瀬義郎らの配慮で、歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉の治療を受けている。ある日、家族を外へ呼び出した浩二は1時間近くも「これが俺の家だーっ」と叫び続けた末に入院。この入院中に芥川龍之介が自殺している。
その後、7年間の療養生活を経て執筆活動を再開するものの、かつて「饒舌体」と謳われた文体は失われていた。
一方で、浩二の生涯は女性関係が派手であった。キヌという妻がいるにもかかわらず、愛憎にかかわった女性は分かっているだけでも、商人の妾だった加代子、「苦の世界」を書くきっかけになった伊沢きみ子、芸者の鮎子、同じく村上八重、女給の星野玉子らと枚挙にいとまがない。ちなみに正妻のキヌは昭和21年に亡くなっている。
誰がいったか「作家というものは、貧・病・女の三つを味わわなければ一人前ではない」という言葉そのままの生涯を歩み、昭和36年9月21日、肺結核により逝去。純文学に打ち込んだ70年の生涯だった。
●宇野浩二文学碑:アクセス/地下鉄谷町線・中央線、谷町4丁目駅4番出口から徒歩6分。中大江公園内