七つの子(9)
ぼくは血に染まったシャツを脱ぎ、トイレのゴミ箱へと押し込み、洗面台で手を洗った。
車に戻りエンジンをかける。
カーナビを操作し、《自宅》のデータを消した。
自分のアパートの住所を登録しておこうかとも考えたが、疲れ過ぎていてもう頭が働かない。
うしろに横たわるお母さんの、座席からだらんと落ちている手を握り、
「今日は疲れたね。ぼくも少し寝ていいかな」
と話しかけ、運転席のシートを倒した。
ぼくは近づいてくるサイレンの音を聴きながら、ほんの束の間の眠りに落ちた。
お母さんの手は握ったまま。
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ぼくは高い塀に囲まれた、何の無駄もない空間で
ただ毎日、ひとつのことだけを考えて生活をしている。
何故こんな事になってしまったのか。
いくら考えても答えなど見つからない。
あの赤い中古の軽自動車を買ってしまったから。
カーナビに、あの家の住所が残されたままだったから。
ぼくが単なる好奇心で、あの家まで行ってしまったから。
あの家族のことを羨ましいと思ってしまったから。
あの子供達、お母さんを愛おしいと感じてしまったから。
あの時、子供達が泣き止まなかったから。
あの時、お母さんが子供達のことをぶったりしたから。
あの時、庭に錐が置いてあったから。
裁判の最終弁論で、裁判長が言った。
「被告人は今回の事件を起こすにあたり、初犯であること、今回の事件に至る過程、そして幼少期の不遇な体験に対して情状すべき余地はあるものの、被告人の短絡的、異常性のある思考は、今回の犯行を免れていたとしても、また別の犯行を犯していた可能性が考えられる」
その時にはよくわからなかったけど、そうなのかもしれない。
ぼくは、ぼくの人生を自分のものとしてとらえられてはいなかった。
この高い塀の外で、また自由な生活を送りたいと思っていた。
でもぼくにはこれまで、外の世界にも精神的な自由などはなかったことに気づいた。
塀の上に一羽のカラスがとまった。
ぼくの方をじっと見ている。
まるで、ぼくの死期を知り、待っているかのようだ。
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ぼくは刑務官に連れられ、無機質な冷たい通路を歩いている。
今日はぼくにとって特別な日だ。
かーらーすー なぜなくのー からすはやーまーにー かーわいーいーなーなぁつーのーこがあるかーらーよー かーわいー かーわいーとーかーらーすーはーなーくーのー かーわいー かーわいーとーなーくーんーだーよー やーまーのーふーるすへー いってみてごーらーんー かーわいーいーめーをぉしーたーいーいいこーだーよー
この歌は母親と手を繋ぎながら、家に帰る川沿いの道で、一緒に歌っていたんだった。そんなことも忘れていた。
ぼくは母親の手から離れたくなくて、わざとゆっくり歩いていた。
いつまでもいつまでも、そうしていたかった。
家に帰れば、母親は仕事に出てしまう。
だから、ゆっくりとゆっくりと。
不意に思い出した。《七つの子》だ。この曲のタイトル。
ぼくが7歳になった頃、母親は家に帰らなくなった。
お母さん、おウチへ帰って来てごらんよ。
かわいい子が待っているよ。
お母さん、帰って来てよ。
お願いだから。ねえ、お母さん。
ぼくはずっと、母親から愛された事ことなどなかったと思っていた。でも、ここに来てから少しずつ幼い頃の記憶を思い出してきた。いや違う。あの母子に出会ってからだった。
もう死んでしまった母親。
あの人は、あの人なりの方法で、ぼくを愛してくれた。少なくとも家を出て行く前までは。ぼくはこの塀の中でその事に思い当たった。それから、ぼくが母親のことを、たまらなく好きだった事も。
あの家のお母さんには、実の母親を。子供達には、ぼく自身を反映させて見ていた。
本当に幸せそうだった。
そんな幸せな家族を、ぼくの手で。ぼくの手であの母子3人を殺してしまった。
そして、最後に頭に浮かんできたのがこの歌。
微かに残る、母親との幸せな記憶。
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刑務官に目隠しをされた。
最後の刻が迫った。
ぼくは今、安堵している。
母親のもとへ行ける。
お母さん、今から会いに行くよ。
そしたら、ぼくのこと、強く、抱きしめてね。
足下の床が開き、ぼくは母親の待つ世界へと落ちていった。
【おわり】
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