そしてまた、7年 【不確かな約束】
僕は今、火葬場にいる。
鬱気味でずっと体調がすぐれなかった母が亡くなった。
葬儀には母と離婚した父も顔を出してくれた。余所者がずっと一緒だと、母の親類の方が気をつかうからと、父は葬儀が終わったあと帰っていった。父は会場の後ろの席に座っていたので様子を見ることはできなかったが、泣いていたのかもしれない。目が赤くなっていたから。
母を火葬してもらっている間、僕は外の喫煙所で煙草を吸っていた。秋晴れの空は蒼く、風は心地よかった。こんな時でなければ、芝生にでも寝ころがり、昼寝をしたいくらいだ。
「シュウ」
聞き馴染んだ声が、僕の名を呼んでいる。
煙を吐きながら振り返ると、そこには懐かしい顔があった。
「ユキ、来てくれたんだ」
「この度はお悔やみ申し上げます。お母さん、大変だったんだね」
「うん、ずっと辛そうだったから。これでやっと楽になれたんだと思うよ」
「あなたは大丈夫?」
「うん、母さんのことについては大丈夫」
「葬儀に出られなくてごめんなさい。シュウのお母さんが亡くなったって聞いたの、今朝だったから。ウチのお母さん、すぐに連絡くれたらよかったんだけど、でも車をとばしてなんとか来れて良かった」
「そっか、わざわざありがとう」
「あっ、そろそろ呼ばれる頃じゃない」
「そうだね。ユキ、今日はこっちに泊まるのか?」
「うん、そのつもり。どっかホテルでも探さなくちゃ」
「だったら駅前のホテルを予約しておいてやるよ」
「いいわよ。あなた忙しいんだから。自分で探すわ」
「大丈夫だって、そのくらい。そのホテル、知り合いが経営してるとこだから。電話かけるだけのことだし」
「そう、じゃ悪いけどお願いする」
「了解。それから、夜、ホテルのラウンジで会えるかな。俺達、ちゃんと話しておかなきゃいけないことがあるだろ。こっちは無理矢理にでも時間つくっておくから」
「わたしは構わないけど……。わかった。そうしましょう」
焼かれた母の骨は軽く、乾いた音をたてて骨壺へと収まった。ユキは頬に涙を流しながら、その様子を見守っていた。
7年前、久々に会ったユキと自分の部屋で、あの最高の一日を過ごした。これからまた二人の時間を積み上げていけるのだと思っていた。
でも翌朝、電車を降りたあとのLINEを最後に、連絡がとれなくなってしまった。交換したばかりのLINEにこちらからメッセージを入れても既読にすらならない。この7年間、僕はあの日のまま置き去りにされたような気分で過ごしてきた。
母親の親類との細々とした話は翌日にさせてもらい、僕はホテルへと向かった。
ホテルの受付カウンターでユキを呼び出してもらい、ラウンジのソファーに深く体を沈めた。疲れが全身に巡ってくる。目を瞑ったら、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだ。
視界の向こうでエレベーターの扉が開き、ユキが現れた。インディゴブルーのジーンズに薄いグレーのパーカー、パーカーの中には白いTシャツを着ている。彼女らしいシンプルなコーディネートだ。短めのボブにカットされた髪がよく似合っている。
僕はソファーから立ち上がり軽く手を上げると、彼女をホテル内のバーへと誘った。
ホテル内のバーは、まだしっとりと呑むには時間が早く、カウンターに2人の男性がいるだけだった。僕達はカウンターのうしろを通り抜け、奥のテーブル席に座った。
バーテンにジンリッキーを2つ注文して、暫くの間ユキの顔を見つめる。
「ごめんなさい。怒ってるよね」
沈黙と視線に耐えかねたように、ユキが口を開く。
「もう怒ってはいない。怒りを持続するには時間が経ちすぎたからね」
「じゃあ、怒ってはいたということね。今日はその理由を聞くために時間をつくったんでしょ」
「ああ、そういうことになるね」
運ばれてきたグラスを少しだけ上げる。
「けんぱい」
ユキもグラスを上げ、呟くように言った。
「献杯」
遅れて僕も言葉にする。
グラスに少しだけ口をつけ、二人ともまた黙ってしまう。店内に小さく流れるジャズの音だけが聴こえる。
握ったままのグラスを見つめているユキが、深く息を吐いたあと、顔を上げ僕の目を探るように見ながら話し始めた。
「わたし、あの日、あなたともう一度ふたりで生きていきたいと思った。とても強く。あなたとはやっぱり運命というもので繋がっているのだと確信したし、あなたにもそんなふうに伝えた」
「俺もそう感じた。これからは距離は少し離れていても、いずれ一緒に生活できるようになるものだと」
「そうよ。わたしもあなたと一緒になりたいと思った。あの時は」
「じゃあ何故」
「あの2日目の朝、わたし怖くなってしまったの。あの夜。あれほど完璧な幸福を感じられることは、もう二度とないんじゃないかって。それほどにあなたに愛されたあの夜は素敵だった。そして朝起きるとあなたが居て、一緒に朝食をとる。それだけでもあんなに幸せを感じられた。でもね、あなたも知っている通り、そういう気持ちって、永遠には続かない。どうしても月日が経つうちに段々と薄れていってしまうものなのよ。だったらあの瞬間のまま、閉じ込めてしまいたかった。わたしとあなたの記憶の中で」
「わからないよ。俺にはユキの言っていることが理解できないし、間違っていると思う」
「そう。今ではわたしにも間違っていたとわかる。でも、あの時のわたしには恐怖しかなかった。あのふたりが身も心もひとつになれた一体感。あなたはわたしに溶け込んで、わたしはあなたそのものになれた。あの感覚が無くなっていってしまうのかも、と考えただけで恐ろしかった。わたしもあなたもこれからお互いに少しづつ、傷ついていくしかないんだと思ってしまったから」
「なんだよそれ。余計に意味がわからないよ。だって、もし俺達がずっと付き合い続けて、もし、あの時みたいな感覚が薄れていってしまったとしても、別の愛情というものが生まれてくるはずだろ。お互いを労り合うような」
「そう。そうなのよ。わたしも子供を生んで初めてそんな愛について理解できた。夫に対してもね。おかしいね。自分が子供の頃にはそんな愛に守られていたはずなのにね。知らないうちに忘れちゃっていたんだね」
今度は僕が深いため息をついた。
「結婚して子供までいるんだな。そっか。幸せか?」
「うん。とっても幸せ。飼育係の仕事にも最近もどれてね、たまに息子も一緒に連れていくの。ウサギだとかロバだとか息子は大喜びで追いかけまわしてる。家では夫が息子の話し相手になって楽しそうに聞いてあげているの。あなたとも一緒になっていたら、こんな生活ができていたのかなーなんてたまに想像してみようとしたりするけど、まったく浮かんでこない」
「そっか。良かったな」
「ごめんなさい。こんな話しして。それで、あなたは今どうなの?」
「どうって。一応、付き合ったりしたコはいたりしたけど、どれも長続きはしないな」
「そう」
「うん、そう。正直言って、ユキとのことが整理できないままでいたから」
「そうなのね。あなたにはまた申し訳ないことをしてしまった。わたしの中では、あの最後のラインで区切りをつけたつもりだったのだけれど。一方的過ぎたわね。本当にごめんなさい」
僕は今でも忘れずに頭に残っている、あのユキからのLINEの文章を思い起こした。
とっても素敵な再会だった。大人になったシュウを見ることが出来て凄く嬉しかったよ
「おいっ。あれで区切りをつけたつもりだって?確かにちょっと不自然な文章だとは思ったけど」
つい、大きな声を出してしまった。カウンターの男性二人がこちらを怪訝そうな顔で見ている。
僕はカウンターに向かって軽く頭を下げた。
「君はいつも勝手なんだよ。高校生の頃からずっと。一人で自分の頭の中でだけ考えて、自分ひとりで決めてしまう。どうして一緒に考えようとしないんだよ」
一番言いたかったことが言葉として溢れ出てきた。声のトーンは抑えながらも、必然と強い口調になった。
ふたりの間にまた沈黙が訪れた。ユキは辛そうな表情で必死に言葉を絞り出そうとしている。
僕はグラスに残った液体を一気に呷ってから手を上げてバーテンを呼び、生のままのテキーラを注文した。
「そうよね。わたし、ずっと勝手だった。あなたにはどれだけ謝っても足りないね。もう謝る言葉も見つからないくらいに」
そしてもう、何度目かの沈黙。静かに流れる甘いバラードが鬱陶しく感じられる。
テキーラとミネラルウォーターが静かにテーブルに置かれた。僕はテキーラの入ったグラスを取り、胃の中へ全て流し込んだ。
目を瞑り、息をゆっくりと吐き出した。気持ちを落ち着かせてから話す。
「もういいよ。今更、元に戻したい訳でもない。君の口からはっきりと聞けて良かったよ」
伝票を取り、立ち上がる。彼女も慌てて立ち上がった。
「せめてここの支払いくらいさせて」
僕は黙って伝票を渡す。
支払いを終えたユキは、ホテルの外まで見送りについてきた。
「会えて、こうやって話すことができて良かったよ。それから母さんのこと、ありがとな」
ユキは複雑な笑顔を浮かべながら頷いた。
「なあ、最後にハグをしてもいいかな?」
返事を待つまでもなく、僕はユキを抱きしめた。
ユキの髪の匂いを吸い込む。
素敵な香りがした。
シャンプーの香りの中に、女の匂いが混じる。
違った。
もう、自分の知っているユキではなくなっていることに気付かされた。
これで本当に次へ進める。そう感じた。
「今までずっとありがとう。じゃ、あなたも自分の幸せをしっかりとみつけてね」
ユキは僕の手からするりと抜け出すと、そう言い残し、ホテルの中へ戻っていった。
「ああ、おまえに言われなくてもそうするさ」
心の中でだけ答え、僕は自分の人生へと向かい、歩を進めた。
【おしまい】
〈不確かな約束〉、約1年ぶりくらいに書き足してみました。
これで本当に終わりです。ふたりとも32になる歳です。こんな結末になりました。
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